このブログは

雑誌編集者を目指して、上京。
トラの穴で編集プロダクション生活をスタートさせたばかりの「のんちゃん」(23歳女子)に贈る
編プロ・トラの穴的 おこごと、仕事のコツ、ラクの仕方と、社会人的たしなみと。

順不同でまいります。
つまみ読み、どうぞ。

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WEB検索と「宛名のない善意」

2016年1月31日 (日)

Yahoo!ニュース」の

「年収240万円で子育てをしながら普通に暮らす方法。」(中嶋よしふみさん)という記事で

 http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakajimayoshifumi/20160114-00053396/

「宛名のない善意」という言葉に触れた。このブログが紹介されていた。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51018376.html

 

一日に何度WEB検索をかけるだろう。

そのたびごとに有用な知識を得ることができて、

初めてにもかかわらず金魚をちゃんと育てることができたり、

購入してみたら想像以上にデリケートだった植物の主張に対応することができたり、

冷蔵庫の残り物でささっとできる朝晩のメニューを考えられたり、

苦手なPC操作をフォローしてもらったり、スマホの不具合を救ってもらったり、

企画をつくるときの広がりを助けてもらったり、枚挙にいとまがない。

 

……、たとえば今「枚挙にいとまがない」を使ったところで

素の私は、「たとえを挙げてみれば枚挙にいとまがない」と書こうとして

「ん? 頭痛になっている気がする」と不安のアンテナが立ち

即座に「枚挙にいとまがない」を検索する。

weblio

【数え上げるときりが無い、数えられないほど沢山ある、などの意味の表現。「枚挙」は「数え上げる」という意味。】という情報を入手する。

すると、

「仕事で企画をつくるときの広がりを助けてもらったり、数え上げればきりがない。」

のほうがしっくりくるな、なんていうことになる。

 

仕事で企画をつくるときの広がりを助けてもらったり、数え上げればきりがない。

うん、落ちついた気がする。



話を元に戻すと、

とにかくそんな企画立案・展開のサポートをWEBにしてもらうこともあれば

漢字の筆記や読みや英語の綴りの確認、自分の知識のデータ的裏付けをしてもらうこともある。

電話で話す傍らで、話の内容の裏をPCでサクサクとっちゃえるのもすごく便利だ。

こういうことを30年前にやろうとしたら、結構時間がかかったものだ。

機械オンチの私が今、普通にPC操作できるのも、WEB検索のおかげ。

 

WEBで情報をいただくときに

世界は(少なくとも私が触れるWEBの世界は)、なんと善意で満ちあふれているものなのか

と思う。豊かさを感じることができる。

個人の利益とはほぼ関係なしに

惜しげもなく知識と経験を公開してくださる方には頭が下がる。

「知らない」相手(検索でたどり着いたユーザー)に対して、非難もなく、

わざと誤った情報を流して困らせるようなこともなく、

有用情報を公開してくださってありがたいなーと思う。

まさに「宛名のない善意」に助けていただいているわけだ。

 

最近の私は、自分の直面した解決すべき問題については、まずWEBからヒントをもらう。

今の自分の困った状態を入力して、スペースを入れて「改善」と入力検索すると

なんらかのヒントが出てくる。


 「金魚 沈む 改善」

「右足 しびれ 原因」

「桜 鉢植え 冬の手入れ」

「品川 桜 寺社 画像」  写真を見たいときは「画像」を入れる

「ワード データ消去 復元」

「アウトルック2007 iPhone 同期」

「お金をかけない 英語力アップ」

◎○○◎ 著作権」 

 

と、まあ、こんな感じ。

冷蔵庫の中の余り物をスペースを入れて入力し、スペースを入れて「簡単レシピ」で

私にもできそうなレシピがあらわれる。

カメラやコピー機の説明書が欲しいときも、WEBで検索すれば簡単に入手できる。

 

もしも出てこないときは、自分の入力の仕方が甘いと認識をあらためる。

近い言葉で入れ直してみるとほぼ必ずと言っていいほど、欲しい情報にヒットする。

 

そんなことからも、その、現在の自分の窮している問題について(健康状態や経済状態、PCの不具合、イベントごとで困っている時など、ざっくりオールマイティに)

窮している人は決してひとりではなく

少なくない人とが自分と同じことがらについて窮した経験を持っていることがわかる。

常に、そのことに対するなんらかの情報を得られるのがWEBの世界だ。

それらは「宛名のない善意」で成り立っているといってもいい。

宛名のない善意は、すべて、探した自分が享受することができる知の宝物だ。

 

もっとも、まったく異なる面も持つのもWEB特性だ。

アプローチのしかたひとつで「宛名のない悪意」に触れることもできるはずだから。

WEBを通じて攻撃された、傷を受けたと感じる人だっていらっしゃるかもしれない。

どこを見て、どう使うかによって、毒にも薬にもなる。

……って、なにかに似ているよなぁ。

すぐれた道具ってみなそうなのかもしれない。

 

 

しばらく続く大デジタル時代、編集者は検索上手になるのが仕事の早道。

企画にも校正にも執筆にも、大いに役立ててください。

検索しながら、検索そのものを洗練させていくことを頭の隅に置くといいと思います。

恩恵にあずかりたおしている自分も

「宛名のない善意」を差し出せるものでありたい、と、思いつつ……

 

【ご注意】

くれぐれも、コピペでそのまま情報を流用するなんていうことはしないように。

とくに仕事で使ったり、SNSで情報を共有する場合には、

 情報の信用性を確かめたり、情報元を確認したり、

 二重三重に調べて情報そのものの精度を高めること。

 情報に振り回されてはいけません。

 

 

 

前向きな廃業

2015年3月17日 (火)

「廃業します」と、お世話になったフォトグラファーさんがご挨拶にお越しになりました。
いつも静かな写真をとても丁寧に撮ってくださり
その仕上げ方たるや「凄まじい」といってもいいほどの、細やかな仕事をなさる方で。
取材でさんざんお世話になっていたので、寂しいことこの上ありません。


「自分の才能ではフリーランスでこの先やっていくのは無理だと判断しました」と
写真と同じく、もの静かに、誠実に語っていらっしゃいました。
けれど決して後ろ向きな廃業ではなく
これから先はフォトグラファーをプロデュースしていくお立場で
専門職に就かれるのだそうです。
この先もクリエイティブでご活躍されることになり、よかったです。
きっと今までのご経験が存分に活かされることでしょう。

寂しいけれど、そんな転向もありだよなぁと、ご英断に感じ入った次第。
きっとたくさんたくさん、悩んで、お考えになったことだと思います。


扉の向こうに素晴らしい未来が開かれることを願ってやみません。

芸は身を助ける

2015年2月11日 (水)

精神的なダメージが強いとき、

自分の仕事に何度も助けてもらいました。

 

二十代の時に父が亡くなったときは

うまく呑む込むことができなくて、半年くらい休まず仕事をし続けました。

あれは焦点をずらすため。

今は解決できないことを、少し自分が落ち着いてから先送りにして考えたかったのです。

(成功したかどうかは別として)

 

それから、今から10年以上前に、うつになりかけたことがありました。

朝起きたら、世界から意味が消えていた、そんな感じ。

仕事に行くのに靴下を履いている途中で

「これはなんだ?(ぼーーーーーっ)」とわけがわからなくなってしまいました。

タバコに火を点けると一瞬で灰になってしまう。

夫に病院に連れて行ってもらって、でも「予約がないと診療できない」と断られ、

「今診てもらわないとダメになるんです!!」と受付で号泣しながら叫んで診てもらいました。

 

その日は事務所に行くことはできなかったけれど、お持ち帰りしている仕事がありました。

翌日がデザイン入れの約束で、まだ構成案を作っていなかったのです。

「できない」

「でもやらなきゃいけない」

なんといっても、物事から意味が消えているのに、なにかができるわけもないのです。

「でもやらなきゃ」

机の上に写真をざばーっと並べて(まだポジの時代でした)

ぼーっと眺めて

白い紙に線を引きはじめました。驚いたことに線はなんとか引くことができました。

 

いつもの4倍くらい時間がかかるけど、しかもひどい字だし

まともに線が引けないのに、それでも少しずつ構成案が仕上がっていきます。

 

うれしかったなぁ。あのうれしさは今もリアルに覚えています。

線を引いて、構成案をつくることが、世界と自分の唯一の接点のように感じました。

なにもわからず、くるくるパーになっているのに、ぐちゃぐちゃな頭でもラフが描けるということ。

私ではなく、指が覚えている。

描きながら、少しずつ少しずつ、失われたものが蘇る感じがしました。

芸は身を助けるとはよく言ったもんだな、と、その時思いました。

 

翌朝、事務所に行けるような状態ではありませんでしたが

「たぶん、今日行かないと、私はもう永久に行けなくなるだろう」と思って

文字通り這うようにして出かけました。だってデザイン入れがあるし…(そこにこだわり続ける)。

ひどいラフだっと思うけど、当時の編集長に理由を話してフォローしてもらいながら、

デザイン入れを終えました。なんてったって、もううまく話せなくなっていたし。

「こんなラフじゃ受付らんないね!」とデザイナーに突き返されることもなく

受け取ってくれたのがとても有難かったです。編集長がまたやさしかった。

そこからゆっくりゆっくり、自分を取り戻すことができました。

 

長くやっているせいものあるのでしょう。

編集の仕事が、自分を正気に返す手伝いをしてくれることが、今も時々あります。

べこべこに凹んでいるときも、同じです。

編集に限らないかもしれませんね。

いつもやっている毎日の仕事を、淡々と丁寧にこなしていくことで

自分が癒える感覚があります。それは不思議な感覚です。

ふだんと同じクオリティではないことを感じつつも、それでも、

ありがたいなと思って続けていると、やっている仕事に自分が救われているのです。

 

芸は身を助けるとはよく言ったものだと、やっぱり思います。

(たぶん、本来の意味とはずいぶん違うけど!)

待つ人 1

2015年2月 5日 (木)

昨日の続きです。

 

編プロの仕事は中間管理職に似ていると思います。

上の人(版元の担当編集者だったり、編集長だったり)がいて、

”ではないけれどもいろんな方々(フォトグラファー、イラストレーター、ライター、デザイナーほかいろいろ)のお仕事を束ねて

束ねたものを“上の人”に見せるわけです。

 

先日、リデザインをデザイナーさんにお願いしたときに

うっかりアップの時間を聞き損ねてしまいました。

 

レギュラーの仕事なので、スケジュールはおしりは決まっています。

アップしたものを上の人に確認しないと、そのおしりに向かって次の駒へは進めません。

上の人のスケジュールもあるので、本来なら「いつごろ上がります」と

伝えておかなければ、上の人に対して不親切です。

 

やっちまった…。

 

「すみません、リデザインのアップ時間を聞き損ねてしまいましたが、たぶん本日じゅうくらいだと踏んでいます。確かな時間を確認しましょうか?」

と版元の担当編集者にお伝えすると、

「わかりました。時間は聞かずに結構です。

せかすより、じっくり仕事していただくのを待っていましょうよ」

 

わかっていらっしゃる!

 

 

そういう言葉がすっと出るのも、

そのデザイナーさんへの信頼があるからこそなんですね。

 

 

そのリデザインが見事だったのはいうまでもありません。

 

みんなすごいねぇ。

待つのが仕事 悠々と急ぐ

2015年2月 4日 (水)

編集者は「待つのが仕事」とよく言います。

クリエーターがアップするのを待つことが多いからです。

 

10日(月)の夕方にデザインアップということになると

その上がりを待って、ライターに回したり、DTPの段取りをしたり、

デスクのスケジュールを調整したり、やらなければいけないことがいろいろあります。

 

ルーチンワークを待つのとは別に

初校時に大幅な訂正が入り、DTPだけでは対処しきれなくなって

もう一度デザイナーに戻してリデザイン、上がりを待つ、みたいなこともあります。

定期刊行物で進行がずらせないものは、

そのリデザインが入ると大幅に時間を食うことになりますから、

とにかく巻いていかなければいけません。

 

しかし、デザイナーにしてもリデザインは予定外の仕事です。

あちらにはあちらの仕事がいっぱいいっぱいなわけで(人気者のデザイナーならそうなります)

そこにねじ込んでもらうわけです。ちょっとしたせめぎあいだと思います。

 

急いではほしいけど、決して急がせちゃだめ。

だって、急いてはことをし損じると昔からよく言います。

修正が大きければ大きいほど、ぎりぎりまで粘って、いいものをひねり出していただかなくてはいけません(←デザイナーに)。

あえて、こちらは悠々と構えてみたりするわけです(内心、十分焦っていたとしても)。

 

先日、腕利きのエディトリアルデザイナーと飲んでいたら、スケジュールの話になりました。

「ああいうとき、焦らないの?」と聞いたら、彼が言った言葉。

「待たせておけばいいんです。それで焦っちゃだめだ。こっちはいいものをつくるのが仕事。それを忘れちゃいけない」

 

しびれました。かっこよろしいわぁ。

 

もちろん彼は、必ず締め切りは守る人ですが、言ったギリギリまで粘るタイプです。

たとえば大きな直しが入って、翌日出しが締め切りになった場合、

もしも前の晩リデザインができあがったとしても、かならず翌日出してきます。

ひと晩寝かせて、翌朝もう一回見てくれている。そのひと手間をかける人。

そんな安心感があります(自分もそういう者でありたいです)。

 

もう20年近く前、大阪の天五にあるこの道50年のたこ焼き屋さん

「うまい屋」の大将が
似たようなことをおっしゃっていました。

「たくさん行列ができて、お客さんがぎょうさん待ってはるやろ。

そんなときこそゆったり構えて、きちんと仕事して、ええもんつくらなあかん。

お客を待たせてるからって焦ったら一巻の終わりやで」

あの言葉を忘れません。

 

「悠々と急ぐ」っていいよなぁ。

 

生き残りは「年下」の扱いにかかっている!?

2015年1月27日 (火)

三十歳になると、版元にいる同年代の人たちは、相応のタイトルがつくようになります。

まずは副編集長あたりが多いかな。

このへんで、私は年下のことを意識するようになりました。

 

三十歳。5年以上も同じ畑(業界)にいるのですから、立派に中堅です(社歴ではありません)。

入りたての人からみたら、ちょっとこわく感じて当たり前。

実際、右も左もわからずにやっている版元の新人さんたちに

振り回されることもあるでしょうし、

何の因果か、こちらが後始末しなければいけないことだって出てきます。

 

でもね。年下は意識して大事にしたほうがいいと思います。社内でも、社外(版元)でも。

(年上は、意識しなくても大事にするでしょ?)

「あの人、年上だけど、話がしやすいみたい」と思ってもらえたらラッキーです。

年下さんがわからずに、でも聞けないようなことに気づいたら、さりげなく教えるとか

嫌みじゃなく「これ、こうするとすごく早いんですよ」といって情報を入れるとか

「こういう写真って、シズル感があっておいしそうでいいよね」とか。

もしもなにか相談してくれたらラッキーと思って、ちゃんと話をしてみるとか。

 

こちらはクリエーター。相手にとっては外部発注先。

長い人生、これから先はどんどん年下が増えるんです。

ついでに間違いなく、発注者も年下になっていきます。

そのときに、ただこわい上の人ではだめなんです。そんなのだれでもなれるもの。

「腕のいいクリエーターがいるけれど(これはよくあるでしょう)、
年上だけどコミュニケーションが取りやすい、自分の思ったことを怖じけずに伝えられる」

だからこそ、一緒に仕事がしたくなってくれて

こちらの年齢を気にせず、発注してくれる。

こういう流れになるんじゃないかなと思います。

「年上で器用なのにお願いしやすいの。あの人なら私、仕事もラクできるの」

そう思っていただけたらうれしい。

 

シズル感のある、感性のいいのは、自分より年下(かも)。

自分にはない感性をもった若い人。

その人たちが気楽なように気遣いながら仕事を進められること。

おとなだったら、そのへん気をつけてみましょうよ。

版元でも、ほかのクリエーター相手でも、同じです。

 

こちらはあくまでしなやかに、締め切りは厳守しつつ

やりとりはいつもおだやかに。年下さんの話をまず聞くことから。

 

これは、長く仕事を続けるコツのひとつだと思います。

我々は、発注をいただかなければ、商売が続かないのですから。

それを支えるのが年下さんです。




これを読んだ年下諸君。お仕事待ってるわよ♡

努力はいらない

2015年1月25日 (日)

気が付けば、編集者になって25年。

「気が付けば」という言い方が正しいと思います。

「この仕事をずっと続けるぞ」とか「石にかじりついてでも頑張ろう」とか

思ったことはありません。大義名分もないし。

 

続けてこられたのは、偶然のつらなりです。

性格は、飽き性だし、根気もないし、ガマンがきかないタイプだし、人から指図されるのが大嫌いなうえに負けず嫌いだし、

「努力」と「根性」ほど苦手な言葉はないし、どれもいまだにあてはまります。

 

なりたくて編集職に就いたわけではありません。

学生の頃はむしろ、編集者にだけはなりたくないと思っていました。

当時は書籍の編集しか範疇になかったので、「あんな地味でしんどいもの、ヤダ!」って。

しかも自分が作品を書いて世に出たいのに、

なにが楽しくて人様(作家)の作品を世に出すお手伝いをするのかとつらくなっていました。

ところが「雑誌の編集」というカテゴリーを知るや、「面白そう!」と、今に至ります。

しかも2年限定のちょっとした経験だけのつもりが……気が付けば25年。

人生なにがあるかわかりません。

今じゃ「雑誌もムックもおもしろいけど、書籍もおもしろい!」と思える編集者です。

 

20年間くらいは、編集の仕事は「好き」ではないけれど、

「向いている」と認識していました。

「楽しくてたまらない」わけではなく、むしろ気持ちはいつもフラットです。

だけど、時間の過ぎ方がものすごくはやいので、「自分に向いている」と判断できるのです。

きっと性に合うのでしょう。

締切があって、ひとつのものが確実に完了し、形になるところが気持ちいい。

みんなの力を合わせると、思いがけないほど素敵なものが出来上がって感動する。

20年過ぎたあたりから、「好き」っていってもいいかなと思っています。

 

「努力」が苦手と書きましたが、努力という言葉は相対的だと感じるのです。

よい成績をおさめるためには勉強が必要だというのはわかります。

でも、努力ってなんだろう?  ずいぶん相対的な言葉なんじゃないか??

好きなものや、興味のあるものに対して、

それらに対峙するあるべき自分に少しでも近づくために

様々なことを学んだり行なったりするのは、

当人にとっては非常に当たり前のことで、そういうことを当人は「努力」とは思わないでしょう。

対峙する自分に、自分が納得するための、切符が欲しいだけです。

それを、時間や回数などが人と比べて多いから「努力している」と言うのは他人だけで

他人目線の評価が「努力」といわれるような気がしてなりません。

当人は夢中なだけで

次元が変われば、同じ行為を「サボっている」と言われてもおかしくないんです、きっと。

 

一人称レベルでいうなら、努力ではなく、ワクワクです。

気が付けばやっちゃっているだけだし、だれにも止められない。

その先の景色を見たいからやるだけで、好奇心が原動力なのです。

ものを極めていこうとするのはそういうことなんじゃないかと思います。

 

だから、「勉強しなくちゃ」とか、「磨かなくちゃ」とか、「頑張らなくちゃ」とか

悪いことではないけれど、義務に思うならその程度です。

自分の中に軸がないからどうしても脆弱になる。

極めたいものがあるときの知の欲求って(肉体も含めて)、だれにも止められないんじゃないかしら。



逆に、気が付けばやっちゃっていたり、ハッと気が付けば時間が過ぎていることがあるのなら、

自分の才能はそこに関連する可能性が高いのですから、

自分のありようを見直すのもいいかもしれませんね。

 

印象をよくするエクササイズ

2015年1月20日 (火)

いろんな視点をもつことは大事だと書きました。

そのなかのひとつともいえるけれど

後ろへの視点をなんとなく気にしています。

 

後ろ向きということではありません。

前を向いて歩いているときに、自分の後ろがどうなっているのかということです。

この世界に向けて、自分がどのような存在であるのか、ということに近いかもしれません。

自分はその場にどんな気配の残すのか。

 

たとえば、自分が歩いているときに、すれ違う人に対してはさまざま配慮すると思います。

できるなら仏頂面は避けたいし、すれ違った人が気分がよければいいなと

なんとなくそんなことを思います。

森田健さんの「六爻占術」のなかに“外応(がいおう)”という考え方が出てきます。

ざっくり言うと

「宇宙はとても親密で、いつもその人のほしい情報を投げかけている」というものです。

「あの企画は受けるだろうか」なんて考えているときに

とても楽しそうにすれ違う学生さんが目に入ったら、「その企画はOK、うまくいく」

みたいなふうにキャッチします。

詳しくは、森田健さんの『「母神」に包まれる方法』『幸運の女神を味方にする方法』(マガジンハウス)をどうぞ。

それでいくと、私のありようもどなたかの外応になるわけですから、

だとするとよいものでありたいと願いたいじゃないですか。

私は宇宙から受け取るけれど、私も宇宙にお返しするわけです。

できれば、お返しはよいものをお返ししておきたい。

 

なんだかスケールが大きな話でしょうか。

というわけでもなくて、「気配」ということでもいいと思います。

どこかに伺ったあとで、おいとまする。

そのあとで、その場所にどんな気配を残すのか、ということです。

気持ちのいいものなのか、なんだかどんよりしたものなのか、塩でも撒きたくなるものなのか。

 

ごく身近なところで、自分のあとにトイレを使った人が気持ちがいいのか悪いのか

 (きちんと流しているとか〈当たり前か〉、

便蓋を閉めているとか、ニオイがこもってないとか、きれい・汚いとか)

水場を使った後で、後の人はストレスなく使うことができるのかどうか

 (家庭科の授業のあと、使う前よりきれいにしろと教育されました)

ランチのあとテーブルを立つときに、片付ける人の気持ちになれるのかどうか

 (食い散らかしていないか、イスは来たときのようにちゃんと揃えているかとか)

作業したときに、きれいに片付けているのかどうかとか。

できれば一度確認してから去りたいと思います。

「立つ鳥跡を濁さず」という言葉がありますが、似ているかもしれません。

行動のみならず、言葉や表情にも同じことがいえます。



歩道を歩くときだって、後ろから来る人は追い越しやすいか、歩きやすいか

ゆっくり真ん中を歩いていないか、荷物は邪魔をしていないか、

雨の日なら傘はスマートにさせているのか。

 

よい気配を残せる人で、「仕事がうまくいかない」なんていう人を私は知りません。

気配の積み重ねが、人の印象となるのだと思います。

たくさんの視点をもつ

2015年1月18日 (日)

芸術系の学校出身です。今でも印象に残っている課題に

入学したての1回生の4月にやっていたデザイン学科の課題があります。

同じ蚊取り線香のモチーフで、

10
㎝×10㎝のデッサンを視点を変えながら仕上げていくというもので

最大で100枚描かなくてはいけない。つまり蚊取り線香への100の視点です。

いかにたくさんの視点を柔軟に持てるかどうかが問われていました。

私は文藝学科なので他人事でしたが、象徴的なのでよく覚えているのです。

 

それからいろいろな視点を意識するようになりました。おかげで今でも、

ことあるごとに視点を変えて物事を見ることをおもしろがってやっています。

書くのにはもちろん役立つし、仕事でも、日々のなかでも、恋愛でも、

たくさんの視点を持つことは役立つように思います。

そうすると、立場が異なる人の、自分とは違う意見を、

「違う」というだけで排斥せずにすむからです。

 

自分にとっての当たり前が、相手にとっての当たり前にはならないことは少なくありません。

「見る」ことひとつとってもそうです。

同じものを見るとしても

視点が違う、視力が違う、観点が違う、視野が違う。

経験が違えば感じ方は違う。前提が違うことになる。

そこまでいかなくても、同じ写真を、違う場所でプリントアウトしたものを見たら

色味が異なるものを互いに見ているようなことだってあります。

五感についてはほぼ同じことがいえるかもしれません。

 

五感に限らず、ぐっと身近なところでは、

メールシステムも人により構築のしかたは様々で

混乱をきたすことがたまにあります。

「仕事で使っているんだから毎日見ているだろう」と思ったらそうではないこともあるし

「夜中のうちに出しておけば、明朝出社したときに見てくれるだろう」と深夜にメールしたら

携帯でも同期しているようで、真夜中に返信が来て気まずいときもあるし、

その逆で、携帯でも同期して目を通してくれているだろうと思ったら

携帯と仕事は別アカウントで、「え、見ていないよ?」みたいなこともあるわけです。

読んでくれているはずのメールが、添付ファイルがもとではじかれることもあれば、

思いもよらぬ強力なセキュリティに入っていて「迷惑メール扱い」されていることもないとはいえません。

 

自分の考えや感じ方、やり方、状況が基本だと思わないことが大事だと、この頃よく考えます。

あくまで「私の場合はこう」なだけで、世の中にはいろいろな考えや感じ方、やり方、状況がある。

自分を基準だと思い込まないほうがいい。

 

でも、いちいち立ち止まって仕事がはかどらなくなっても困りますからね。

たまには「えーーっ!!」と驚いたりしながら、必要に応じて確認しつつ

丁寧に進めていきましょう。

 

ただ、いろんな見方があり、考え方があるということを、

いつも頭の隅に置いていることは大事です。

頭を柔らかくして、いろんな見方、さまざまな視点を

自分のなかに取り入れることができたら、豊かさにつながるように思います。

多様化を続ける社会で、自分を見失わずにすむんじゃないかな。




暇があるなら、蚊取り線香への100の視点、やってみます?

言い訳注意! 締切・遅刻・納品遅れのお詫び実例

2015年1月 8日 (木)

粗相したときに相手にきちんとお詫びができることは、大人の条件のひとつです。

いい大人は言い訳しません。

言い訳をせず、自分の非を素直に認めてお詫びすることは大切です。

 

仕事でお詫びが発生するシチュエーションとしては

1 約束の時間に遅れたとき (待ち合わせや取材に遅れる、提出や納期など期限に遅れる)

2 失礼・非礼のあったとき 

3 成果が予想よりも上がらなかったとき くらいでしょうか。

 

 

■あなたの言い訳は、相手の時間のむだ遣い

あなたが遅れてしまったことや成果が上がらなかったことに対して、多くの人は、

「なぜ?」は二の次です。

「遅れた」現実があり、これからどうするかのほうにすでに注意が向いているからです。

ここでことさら、懇切丁寧に自分の事情を説明する必要はありません。

事情はあくまであなた個人のこと。

個人のことが本当に気になるのは恋人同士くらいなものでで、あなた個人の事情に相手をつきあわせる(聞いていただく)のは余計です。

聞きたい人は「どうしてそうなったの?」と尋ねるでしょうから、そのときに丁寧に答えればいいことです。

 

■それは配慮のある発言か

「自分が悪いのではなくて、不可抗力の○○○のせいだ」といったこともあるでしょう。

でも、本当に不可抗力ならば、それは口に出すのもはばかられることが多く

言わないほうが賢明です。

約束の時間に20分遅れそうなときに先方へ電話をするという場合。

もしも本当にそうだとしても

「人身事故で電車が遅れて……申し訳ありません」なんて、平気で得意先で言わないこと。

そんな報告を聞いて気分よくなる人間はいないでしょ? 配慮が足りません。

気遣いのなさ、自分の未熟さをアピールするようなものです。

このようなときは「電車の遅延で到着が遅れてしまいます。申し訳ありません」くらいで十分。

自分に落ち度がないことを主張したいがために、気遣いのない言葉を平気で言ってしまうようではいけません。

聞いた相手がどんな気持ちになるのか、そんな気持ちにさせる相手と

ごきげんで打合せなり仕事なりができるのか? ということです。

 

■わかっているときは先に「報告」する

編集者は「締切」だらけの世界で生きています。

遅れることがわかった時点でできるだけ早く、ことが発生する前にお詫びを入れましょう。

すると少なくとも相手のスケジュールを台無しにする可能性が少し減り、

報告と相談の要素が増します。もちろんここでも言い訳は不要です。

 

話は、お詫び ⇒ 現状報告 ⇒ 仕切り直しの相談 の順で。

 

○到着が遅れるお詫び:遅れたあとの相手のスケジュールを気遣って

「ごめんなさい。段取りが悪くて到着が20分くらい遅れてしまいます。

申し訳ありませんが、それからお打合せを始めさせていただくことはできますか?

30分くらいお時間をいただけるとありがたいのですが」

 

(うまくいけば、「たいへんですね。大丈夫ですよ。気をつけてゆっくりお越しください」くらいまでもっていける)

 

○リスケのお詫び

「申し訳ありませんがスケジュールの相談をさせてください。

2日(金)までといただいた締切ですが、5日(月)の午前中までお時間をいただけないでしょうか」

 

(「わかりました。月曜の朝いちばんにはいただきたいけどどうですか? 急がせてすみませんね」くらいの展開が見込める)

 

○提出の遅延のお詫び

「ごめんなさい。段取りが悪くて、本日お約束のものをお送りできそうにありません。

ご都合がおありと思うのですが、明日の夕方までお待ちいただけないでしょうか」

(「わかりました。明日の夜はいないので、明日中にいただければいいです」など具体的な相談ができる)

 

もちろん遅れないに越したことはありませんが

お詫びを都度ごときちんとできていれば、遅れたことより、あなたの気持ちよさのほうが相手の印象に残ります。

これから先、本当にどうしようもなく困った状態の時に、

相談したら手を貸してくれる信頼関係が築けるようになるのです。

 

■言い訳は、あなたを貶めても、決して救わない

言い訳する人は、許されるべきマシな理由があると勘違いしているようですが

幻想です。許されるべき理由などはありません。

(厳密に言うと、広義では許されているのですよ。だって別に粗相のために仕事や人間関係を失わないでしょ? しかし言い訳することで、信用は薄らぐことを察しておきましょう)

 

×「ほかの仕事が忙しくて」「忙しくて」

⇒子どもじゃないんだから。忙しいのはみんなです。

言う人の神経を疑いたくなりますが、言う人はまったく悪びれていないのが不思議。

×「パソコンが壊れて」

⇒プロだろ!!(絶句) くれぐれもこの類いの言い訳は一度きりに。

とはいえ、本当にPC不調でとんでもないことになることはあるものです。

ありますが、許されるべき理由には相当しません。

許されるなら、危機管理なんて言葉は必要ありません。

 

言い訳したくなったらぐっとガマン。

言わないほうが思慮深く見え、墓穴を掘らずにすみます。

仕事ができる人で言い訳をする人を見たことがありません。

くれぐれも自爆にはご用心、ご用心。

 

 

 

スタッフ紹介は呼び捨て?

2014年3月26日 (水)

取材現場では編集者は取材責任者。
ご挨拶のときは同行しているスタッフを紹介することは多いものです。

たとえば編集者がフォトグラファーと一緒のとき。ライターを同行しているとき。
そのスタッフを紹介するときは呼び捨てですか? 
それとも、「さん」などの敬称をつけますか?


ライター&フォトグラファーで取材に行くときは、ライターが先に挨拶しますよね。
フリーランスのふたりが同行するとき、フォトグラファーのことは呼び捨て?「さん」付け?


同じ会社、または同じ編集部の名刺をふたりともが持っているなら
社内(部内)扱いとして、呼び捨てが正しいです。身内ですから。


そうでないなら、敬称付けがいいと思います。
なかには「同じ編集部から仕事に来ているんだから呼び捨て!」という方もいらっしゃるかもしれません。
もしそうするなら、私なら先にフォトグラファーに
「ご紹介のとき呼び捨てでご紹介させていただきますが、恐縮です」なんて、先にひと言断っておきます(ほとんどないけど)。
だって、こちらが発注してお願いした、大切な方ではないですか!


こちらが堂々としていれば
取材先の相手は、敬称をつけようがつけるまいが、どちらでもほとんど気にしません。
(同じ編集部の名刺なら、「?」と思われます)
ただ一緒に仕事をする仲間が気持ちよく仕事できるかどうかが気になります。

編集者にとって、フォトグラファーは、素敵な写真を撮影してもらう宝のような人です。
この人に撮影してもらいたいから、この人の腕が素晴らしいから、わざわざ呼んできた人だということ。
敬称をつけて紹介することで、フォトグラファー自身の心証もよくなるだろうし、
取材先にも「この人、大事なクリエーターですから!」
「あなたのところをきれいに撮るためにわざわざ呼んできた人なんですよ!(ちょっと自慢)」と、
クリエーターを尊重する編集の気持ちが伝わります。
それが大事。
クリエーターはクリエーターなの。ただの作業人じゃあありません。
敬称をつけて紹介することで、現場にそのムードがあらわれるのです。


もしもですよ。何かの撮影のときに、とても有名なカメラマンを同行しているとしましょう。
きっと普通に、「さん」をつけて紹介するんじゃないかなぁ。


フォトグラファーだけに限らず、モデル撮影などで大所帯の撮影クルーを紹介するときも
それを基本にしています(もちろんライターと同行するときもね)。
そうすることで取材先やクライアントが、こちらのクリエーターに敬意を払ってくれるようになります(たぶん。その一端には、助けには、なる)。

人は、だれかがていねいに接する様子を見て
自分も、大切に扱わなくてはいけないなと、感じるものです。


敬称ひとつで、気持ちよく仕事がはかどるなら、いいじゃないですか!


どうぞよい現場になりますように。

違和感を大切にする

2014年3月12日 (水)

雑誌などの編集の上では、同じ媒体の前号から今号へ、
記事情報の「流用」をするものってありますよね。
記事そのものではなく、仕事のやり方を流用することもあるでしょう。
前任から引き継ぐ仕事だったり、
自分自身で長く続けている仕事もあるかもしれません。

社内で仕事をしていてふと気付くことがあります。
「これ、どうしてこうなっているの? ヘンじゃない?」と担当者に尋ねたとき
「ヘンかもしれないけど、前任からこう引き継いでいますから」なんて応えられようものなら
「じゃあ、今すぐにヘンじゃないようにしようよ」と話します。


「前がこうだから今もこう」は、仕事の上で成り立ちません。
その“今”に違和感があるなら、ヘンじゃなくしたり、やりやすいようにしたりすべき。
編集はもちろん、それ以外の仕事でも、たぶん家事だって同じです。
そこに仕事の、もっといっちゃえば、世の中の進歩や進化があります。


ルーチンワーク(=日々のこと)にこそ、みずみずしい感性を持つことは必要で
「ちょっとヘン」はもちろん、
「面倒だ」「手間だ」「わかりにくい」と、感じた違和感をすくいとることはとても大事。
その違和感を大切にし、
目の前にある仕事(もの)へ工夫を重ねて、あらためたり、手数を減らしたり、楽しくしたり……。
そんなところに進歩や進化、改善、発見や発明があるのじゃないかと思います。


面倒くさいや、やりにくい、やだな、なんか気持ち悪いと、
まずは感じることがカギ。
その違和感やネガティブな感じはスルーしない。
すぐに解決できなくても、頭の隅にとっておきましょう。

改善できたとき、もしかするとその改善で、
自分のモチベーションが上がるかもしれません。
それを情報共有できたら、いっそう多くの人が助かることかもしれません。
さらには、手がけているそのもののクオリティが上がるかもしれません。

仕事の効率を上げるだけじゃなく、
ニッチな市場を開拓できるかもしれないし
もしかすると公共の福祉につながることだってあるかもしれないのです。


ほんとうはそれが、私たちの仕事の基本じゃないかと思うのです。

仕事と近親者の葬儀

2014年3月 1日 (土)

少しマイノリティな話をします。

世の中には親の葬儀に出られない人がいます。

 

芸能関係の方でそういう話はときどき伺うけれど、

 

私の周りにもいらっしゃいます。

 

フォトグラファーとか、スタイリストとか、ヘアメイクといったクリエイターたち。

 

訃報を聞いて、入っている撮影をキャンセルするわけにはいかないわけで

 

なにごともなかったように仕事をして(気を遣わせるから周りの人に言えないのです)

 

仕事を完了させてようやく帰れるわけです。それではじめて悲しみに十全に身を置くことができる。

 

 

 

「親の死に目にも会えなかったし、葬儀にも出られなかった。

 

行けたのは葬儀の1週間後だった」

 

なんていうクリエイター仲間の話を聞くといたたまれません。

 

どんなにつらかったろうと、あとから一緒に泣いたりして。

 

 

 

いたたまれないけれども、クリエイターの仕事は、

 

ほかに代わりがきかないからこそ自分にお仕事をいただけるものでもあります。

 

仕事をいただくこと、受けることに対する覚悟といってもいいかもしれません。

 

(ここらへんは、会社勤めの感覚とは異なろうかと思われます)

 

 

 

やっている仕事の内容にもよりますが、

 

親が死んだのに合わせてすぐ帰れないという点では、編集者も似ています。

 

もちろん、ふたり以上でやっていてだれかが代われる状況なら話は違います。

 

それから書籍のように、ある程度進行が自由にできるならまだしも

 

進行のただ中にあって、大勢の人とお金が絡むのを、

 

ひとりでまわしているときにはまず無理。致し方ありません。

 

そんな仕事を選んだのだと思ってあきらめます。

 

 

 


ナーバスな問題だし、正解はありません。
でも、その日はいつかはやってきます。
そのとき自分はどう動くのか、シミュレーションしておくのも大事だと思います。
たとえ故人とは意思が通じ合っていたとしても
葬儀に参列できなかったら、親族からは総スカンだし
仕事に穴をあけたら仕事はもうこないだろうし
(というか、保障問題に発展することだってある)。
……どちらにしても波風が立ちます。
クライアントの率直な気持ち「ご愁傷様です(でも納期は守ってもらわないと困る……)」
その言外の(  )の部分を、自分はどうフォローできるのか、ということです。

 


でも!

 

未来の悪いことばかり想像して落ち込んでもしようがないわけで

 

そこは「私は運がいいので間違いなく葬儀に出られて、

いい送り方ができるから大丈夫!(にっこり)」

 

と思うようにしています。

 

 

 

と同時に。

 

自分が仕切れる立場の葬儀なら

 

葬儀会社にエンバーミングと遺体の長期保存をお願いして

 

葬儀を待ってもらう方法を水面下で模索したりして。


 

いずれにしても、マイノリティな話だし、正解はありません。

ないけれどもちゃんと対峙して考えておくことは大事です。

マイノリティなりに、世間とどこまですりあわせることができるのか。



いずれにせよ、大好きな故人と自分なりにいいお別れができたと納得できることが、

それから先、生きていく上できっと大切なことになるのではないかと思います。



追記

とはいえ、身内の不幸があったときは、上司がいるなら上司にまず相談を。
フリーでない限り、会社にいる限りは守られると思います。

すべての人々がそうした悲しみに十分に浸ることができるということは
とても豊かな世の中なのではないでしょうか。

 

2015.2.11

 

 

 

 




 

 

 

 

飽きないこと

2013年6月25日 (火)

いつだったか、挿絵画家の森田MiWさんが「一日ひとつ、新しいことをしたいんだよね」と話していらしたのが心に残っている。

毎日は、毎日毎日新しいんだけども、考え方でもいいし、アイデアでも、ものの見方でも、もちろん習慣とか行動でもいいから、なにかを手に入れることができたら素敵だと思う。
それは毎日変わらぬ暮らしの中でも、仕事の中でも、同じなんだな。

長くレギュラーの雑誌をやっているときに、「もう飽きちゃったよ」という編集メンバーがかならず出てくる。
でもね、読者はいつでも新鮮で、初めてページを開くんだよ?
そこにはワクワクがあるんだよ?
なのに、つくるほうが飽きてしまってどうするの。
つくるほうがだれよりもおもしろがれなくてどうするの。
過ぎてゆく毎日に、「同じだから飽きちゃった」なんて言っててどうするの。

すべては自分次第です。
いつも、いつまでも、みずみずしい感性を持つようにしたいですね。

きっと年齢には関係ないのだと思います。

森田MiWさん公式HP http://miw.cc/

ほぼ毎日更新される、彼女のツイッターの朝さんぽ写真、しびれますよ。(HPのトップに入口あり)

気持ちのいい人

2013年6月23日 (日)

新宿のオッシュマンズに行ったときに、対応してくださった女性の店員さんがとても感じがよくて
どうしてこんなに気持ちよく感じるのか考えた。
ほかにもいろいろなところで出会う、気持ちいい店員さんたちの共通点。


気持ちいい店員さんで、笑顔でない人はいない。
ほほえんで仕事をするのって、きっと大事なことだ。
そういえば、伊勢丹の日本茶テロワールにも、いつもほほえんで仕事をしていらっしゃる
素敵な女性がいたっけな。
見ていてとにかく気持ちがいい。


商品知識も大切だ。
家電店なんかではとくに、打てば響くようにさまざま教えてくださる方がいて、惚れ惚れする。
意見を求められたときに、その商品についてコメントできること、
客とのマッチングまで正確に言えたら、完璧。


それから、ポジティブさをベースにできるかどうか。これも大事。
前向きで楽しい気持ちになるので、こちらの口元も、財布の口とともにゆるみがち……。
ちょっとした日常会話も、ポジティブベースにできるかどうかで、大きな差になる。
「雨降りでいやですねぇ」と言われるより、「いいお湿りですね」だし
「暑くて参りますね」なんて言われるより、「この暑さ、今日はビールがおいしいでしょうね」くらい、言われた方がぐっとくる。


さらに、気持ちいい店員さんに共通しているのは、気遣いが細やかなこと。
あくまで相手本位。決して自分本位でサービスしない。
言外に、その客がなにを求めているのかをすくいとる。
このへんの妙技に触れたときには、感動する。
コメントの内容、商品の受け渡しのタイミング、目線。
ここがしっかりしていると、客は「大切にされている感じ」を受け取ることができる。
大切にされている感じは、どんなシーンでもとても大事。
「丁寧さ」を醸すのは、この気遣いと、礼儀正しさだ。


あとは基本的な礼儀正しさ。行儀のよさ。
話し方もそうだし、商品の渡し方、お金の渡し方。
お茶の出し方、歩き方、身のこなし。
お札の向きを客側正面にきれいに揃えるなど、おつりの渡し方が美しいと、とてもうれしくなる(これも「大切にされている感じ」につながるかな)。
おもてなしを表現したいからと、新札のおつりを準備するお店もときどきある。
それとは別に、ふとしたときのやりとりで、こうした扱いをされるととてもうれしい。
コンビニでもお金の渡し方に気づかう方、いるよな。


仕上げは別れ際まで美しいこと。最後の印象は、わりと残る。
お見送りするなら、見えなくなるまでちゃんとね。
目線ハズしてよそ見をしているのを見るのは興醒めだし、
客から回れ右をした直後に、笑顔がなくなるのを見るのは、第三者として目にしてもつらい。
「遊びだったのね」という気分になる。


「大切にされている感じ」をきちんと受け取ることができると
あとあとまで、人はその印象をよく覚えている。
それは、その人の印象であり、店の、企業の印象であり。
もっというと、恋愛でも、ふつうの人づきあいでも、少しも変わらない。


人ごとではありません、私もちゃんとしなきゃな、と思うのでした。

2012年の修練項目

2012年1月 4日 (水)

2012年の日々の修練項目、または小さな努力をアトランダムにまとめてみました(目標とはまた別ね)。
さて、1年間でどこまでクリアしていけるでしょうか。

【性格・行動編】
○好きなことだけやっていく。
⇒引き続き。楽しい、うれしい、かわいい、好き、おいしい を大事にしよう。
 「今」のみずみずしさをいつも感じていられるように。

○つき詰めない。執着しない。自分を全力で応援する。
⇒これらは少し上手になってきたから、そのイキ、そのイキ!

○忘れること、多少人より物忘れがひどいことをよしとする。
⇒個性だぜ。

○瞬間に感じる「ヤだな」と「きらい」は、自分の中で明文化する。
⇒かなりのヒントだから。自分の苦手・NGもそこにあるたぶん。
 同様に、意味のないことをくどくど考えるのも、大事にしよう。
 答えを出すことではなく、くどくどの根源が大事。

○自分を知る。速度とか、性格とか。
⇒やりたい気持ちだけはひと一倍。しかし、ほかにもやりたいことがひと二倍ある。
 ゆえに思うほど最初の「やりたいもの」の速度はあがらず、寄り道が多いことを自覚し、 そこの計算を正しくやろう。

【書き手としての修練、鍛錬】
○いつでも基本前向き。ポジティブ姿勢を徹底する。
 ⇒いかなるときも、ネガティブ発言禁止。もうこれは鍛錬として。

○ことばを大事にする。
 ⇒ゆえに基本的に使わないようにする言葉 ……「本当」「神様」「祈る」
  これは美学の問題として。つるっと書いてしまいそうなので。軽々しく使わないよう戒める。
  できれば使わずに、言い換える(できるのか)。

○まずよく聞く。
 ⇒ブログ以外で自分を語ることはやんわり禁止 。会話中も注意。 自分の立場を確定する。
  自己顕示欲強いのは自認するので、ここはとくにハードル高いか(^_^;)

○スマートな所感の表示を仕方を追求。
 ⇒言語化すべし。

○表現は端的に。
 ⇒ツイッターの140文字は非常にいい訓練になっている。
  冗長はいけない。しかし言葉は尽くすべきである。

○やわらかな表現のマスター。
 ⇒好きなんだよなぁ、土井晩翠、ますらおぶり、夏目漱石……て、いけませんっ。
  届けるための書き方って、今はやわらかさと平易さにある(はやりの問題です)。
  言葉から濁点を排除できるか。言い切りを軽減できるか。

○洗練された言葉の順番
 ⇒自分の書き言葉のクセを再確認しつつ。レトリックの修練。

以上。せっせと努力項目。まじめさを生かしてまいりましょう。
自分の伸びしろは自分で伸ばすのが大人です。

のんちゃんの招待状 ~首都圏で結婚式を考えているおふたりに~

2011年3月29日 (火)

地震の週末が開けた月曜日。のんちゃんから手紙が来ました。
事務所のスタッフひとりひとりに宛てた、彼女の結婚式の招待状でした。
 ※ブログを更新していなかった1年間の間に、彼女は職を辞して滋賀の実家に戻りました。
  
そしてこの春結婚です。悩みましたが、ブログのタイトルは変えませんでした(*^_^*)
関西在住なのに、東京で結婚式をしてくれる。とてもうれしくなりました。

この地震の直後、全国の花嫁さん・花婿さんの心労はいかばかりだったかと思います。
(むろん、会場の皆さんのご心痛、ダメージも、はかるにあまりあるのですが……)
やむなく中止にしたカップルもいらっしゃるだろうし、延期にした方も多かったでしょう。
今もどうしようか不安に思っていらっしゃる方もたくさんおいでだと思います。

当然、リゾート挙式で首都圏以外でのウエディングにしたり
家族だけの少人数の結婚式にする方も増えると思います。
その選択だってとても素敵です。ふたりが一所懸命考えた結論に、間違いがあろうわけありません。

けれど、わたしがのんちゃんから届いた結婚式の招待状がとてもうれしかったように
おふたりの結婚式の招待状をとても喜んでくれる人がきっといると思います。
だから、どうぞそのまま思い描いた結婚式をしてください。
「自粛」ムードに流されて小さな結婚式にしちゃうのではなく、
今だからふたりのハッピーをみんなに伝えて、温かくしちゃうくらいのことを考えてもいいと思います。

とはいえ、まだ決して揺れないとは断言できないし、計画停電だって実施されるエリアもあります。
そういうことをできるだけポジティブにとらえて
素敵な結婚式をデザインしてほしいと思います。

「電力をムダにしないために、シャンデリアの電気は消してもらいますね」
「暖房の設定を少しだけ低めにしています。膝掛けも準備していますから、冷える方はお気軽にお申し付けください」
とひとこと司会者から伝えてもらえば、それだけでゲストはずっと温かい気持ちになるかもしれません。


もしくは正反対だとしても、アナウンス次第です。
「小さいころから夢をみていたこの日でしたから、皆さんのご厚意に甘えて
今日はあこがれていたイメージそのままを再現させていただきました」で
シャンデリアぴかぴかにしちゃっても許されます。
一生に一度の日に、水を差す人はいませんから。
要は、ちょっとしたエクスキューズ次第。すてきなアイデアはないか、アイデアを会場の方にご相談しちゃいましょう。

今の今だったらどうでしょう。
「東北を応援したいので、飲み物には東北の地酒を各種取り揃えました」
だけでも、おふたりの被災地への思いが伝わるかもしれませんね。

また、これから招待状を送るなら、
会場のコンディションに合わせて、招待状でドレスコードをお断りしておくのもありかもしれません。

しあわせなおふたりが作る結婚式は、どんどん楽しくなります。
ゲストの笑顔が広がります。
だからどうか、今の状況にひるむことなく、どうか素敵な結婚式をつくってください。
しあわせをみんなに伝えてください。

おふたりにとっても、みなさんにお祝いしてもらう結婚式は、とてもしあわせな記憶になります。
どんな状況でも、それをかなえるために、会場のプロフェッショナルが応援してくれることを忘れないでください。
会場スタッフは、赤の他人じゃありません。みんなが親身になってくれます。

わたしも、これから結婚するおふたりをどんどん応援したいと思います。
どうしようか悩んだら、いつでも相談にのりますからお気軽に♪
のんちゃんもっ!! 

2010の年賀状

2010年1月13日 (水)

松の内もとおの昔。
2010年の年賀状プロジェクトは、のんちゃんをはじめ、スタッフみんなのおかげで
例年になくスムースだったように思います。

紙の年賀状はずいぶん減ってきました。
「環境を考慮して」といわれちゃあ、元も子もないな。
わかってはいるけど、マテリアルのある年賀状はいいなと思います。
イラストレータさんからの年賀状で、オール手書きの虎のついた年賀状をいただきました。
こんな素敵な、気持ちのこもった年賀状なら、だれも「環境……」なんて言わないだろうなぁと思いました。
それが、紙で、ここに絵があることが、とても大切だからです。
年に一度の書面でのご挨拶。
今年ほど「大事だな」と思うことはありませんでした(詳細はまた今度)。
来年になったら、もっと痛感しているかもしれませんけど。

さて、2009年の対外的な仕事納めの日、のんちゃんに言われました。
「わたし、今年は成長したと思います!」

自分で言わせてごめんね。たしかにのんちゃんは成長しました。
鬼の年末スケジュールを、見事に段取りよくこなしました。
人の成長って、一緒にいると気がつかないこともありますが、
ときどき離れて、大きさ見ないとだめですね。
離れたり、くっついたり、そんなことが大切な気がします。


あ~でも、まだまだ伸びしろあるから、
のんちゃん、このイキで、もっともっと成長してください(*^_^*)

潜在意識の話 2【超長文】

2009年3月 2日 (月)

「ニュース」のほうにあげましたが、こちらにもあげておきたかったので、

以下ペーストいたします。まずはニュースの抜粋から……。

餅90キロ軽々 醍醐寺「力奉納」女子の部新記録

 京都市伏見区の世界文化遺産・醍醐寺で23日、巨大な鏡餅を持ち上げた時間を競う、恒例の「餅上げ力(ちから)奉納」があった。男性が150キロ、女性は90キロの餅に挑み、女子の部では同区の看護師根本クミさん(49)が、06年に出された過去最高記録を50秒更新する8分36秒の記録を出し、参拝者から大きな拍手が上がった。
 約1100年続く「五大力尊(ごだいりきそん)仁王会(にんのうえ)」の行事の一つとして戦後に始まった。五大明王に力を奉納すれば無病息災のご利益があるとされる。男女合わせて60人(20~60歳)の力自慢が参加し、男子は伏見区の公務員岡山豪さん(28)が5分3秒で優勝した。
 10回目の挑戦で初優勝した根本さんは、集中しようと「野に咲く花のように」を頭の中で繰り返し歌っていたという。「うそみたいです。今日は餅が軽いと感じました。賞品にもらった餅は、具合の悪い人たちや友達に分けたい」と話していた。/2009年2月24日(火) asahi.com


何気なくニュースを眺めていたら、この記事。
これだ。潜在意識の作用がわかりやすく書かれている。

最近は潜在意識のことばかり考えている(「のんちゃん」で書いた)。

http://zerohachimaru.cocolog-nifty.com/nonchan/2009/02/post-df04.html
あれからさらに進化して、潜在意識はどこにあるのか とか なんなのか、とか
毎日考えていたら、ヒントがぽーんと降りてきた。
ちょっと不思議なことだった。
最近とあるご縁でお目にかかったKさんから、アマゾン経由で突然本が送られてきて
そのなかにとても近い答えを見いだした。
ハワイで「ホ・オポノポノ」ということを実践する人たちがいて
そこで書かれていることが非常にわかりやすかった。潜在意識の癒しについての話。
さっそくやってみるとあまりに心地いいので驚いている。


さて、その潜在意識のお話。
最近は、潜在意識を消費に結びつける研究もなされていて、賑やかだけども、
脳科学的には「感性」同様に解明しきれていない部分。
心理学では、ユングが発見して、その後に連綿と続く研究がある。
ヒトの意識構造は超簡単にいうと
表層心理

深層心理

潜在意識

と分けられている。

トラウマが生息するのは深層心理の領域。
潜在意識は普段は一切知覚できないもの。
では、潜在意識はどこにあるんだろう。
海馬から大脳皮質に書き込まれた記憶……いいえ、もちろんそれではない。そこはまだ表層。


「ホ・オポノポノ」の潜在意識についての表記を読みながらあらためて考察すると。
あなたが、わたしが、ここにあるということは、それは生命の歴史の最新型ということ。
どんどん遡れば、あなたも、わたしも、ほ乳類から鳥類、は虫類……ついには魚になっていく(いや植物時代もあったかも)。
繰り返すが、我々は生物の歴史の最新型。進化の最終形といっていい。
そのいのちの記憶こそ、潜在意識ではないか。
必死になって生き続けてきた記憶。進むためにだけある記憶。いのちをつなげるための智慧。
細胞の一つひとつに、生きのびるための記憶があるわけで、それを総称して潜在意識というのではないか。

自分が知覚できない、「いのちの記憶」が、細胞レベルにからだのなかにあるわけですよ。
DNAのなかに、と言ってもいいかもしれない。
そのいのちの記憶は、これからも続くように、全力であなたを応援する。
「船」としてのあなたが生きやすいようにエールを送るし
すべての智慧を集結して、船がしあわせであるようにし向けるはずだ。
なぜならば、それこそが「生きる」ということだから。
あなたが健やかに生きることこそが、いのちの記憶すべての願い。
あなたが前向きに生きようとするとき、潜在意識(いのちの記憶)と、船としてのあなたの利害はきれいに一致するというわけ。
そうすると訪れるのが心的な「快適」だ(心的なことにとどまらないというのが、最近の自己啓発本の主流)。

ところが、表層心理に支配されるわたしたちは、その信号をうまく知覚することができない。
「表層」は、声が大きく、暮らしに密接に関わるから、そのあたりだけで堂々巡りすることになる(悩みやうつ状態もここで)。
それでも時として、「なんとなくこっちがいい気がする」ことが起きるし、
虫の知らせだって受け取るし、火事場の馬鹿力が出たりもする。
それこそ潜在意識が働きかけてきたときだ。
勘が冴えているといわれる状況も、おそらく同じこと。潜在意識がきれいに表層へ届いている状態。
身のまわりを見ていると、潜在意識の情報をキャッチできるのは、アーティストに多い。
たとえば、ヘアメイクのMさんの話。
「髪型を作っているとき、 “そうじゃない”とか“OK!”と信号がくることがあるのよねぇ。
あれ、わたしが言っているわけじゃないと思うんだ。
数学の問題を考え続けていて、ずっとわからないのに、突然降りてくることがある。
あれも、“わたし”が考えているわけじゃないと思う。どこかから答えが降ってくる感じ」ですって。
潜在意識の信号をうまくくみ取れる方なのだと思う。
感性はもしかすると、潜在意識と近くあるのかもしれない(超仮定)。
振り返れば、自分の日々の暮らしのなかでも、潜在意識にお世話になっていることは多い。
わかるかな? 気がつくこと、ありますか?


前世リーディングなどのスピリチュアルの現場にいて思うのは
そこで行われていることの多くは、潜在意識との対話である ということだ。
霊感占いやヒーリングのたぐいにしても、相談者の潜在意識とチャンネルを合わせることで、結論が導き出される。
結論をもたらすものはまったくの第三者ではない。相談者(「船」)をよく知った者たち(相談者の深層意識)から送られる信号なのだ。
だからこそ、あれは「あてもん」でも「予言」でもなんでもない。
潜在意識が常に必死に「船」へと送るメッセージを、「霊感がある」といわれる第三者が読み取るにすぎない(※透視・霊視はこの限りではない。この話はまた今度)。
そしてそれは、だれにでも、ほんとうはできることだ(したいかどうかは別にして)。
……そう。自分でできればいちばんいいのよね。
みんながもっと手っ取り早く楽に生きられる。
「あてもん」でも「予言」でもないから、
だからこそ、予言を受けてから「船」側の以降の行動次第で、未来はどんどん変わっていく。
取材でサイコメトラーのO氏に占っていただいたときに、氏の紡ぐ明確な言葉に
「これ、わたしやん! わたしの潜在意識の言葉だ!」と感じた瞬間があった。
だから信用できる気がした。
だって、わたしをいちばん知っているのはわたしの潜在意識だから。
O氏曰く
「“5月に恋人に会える”と伝えたとたんに、安心してしまって、今までやってきた努力をすべてやめてしまう人がいる。そうすると当然結果は変わる。
占いって、未来を当てるものではなく、未来を創るものなんだ」
なるほど、よくわかる。
ちなみに、この方のリーディングは非常に心地よかったので(確かな能力を感じた)、
取材じゃなく、来週もう一度伺うことに……(^_^;)


話がそれました。
生物として与えられた命題はひとつだけで、「生きろ」「続けろ」「未来へつなげ」。
わたしに托されたバトンは、確実に次につなげなければならない。
それでなくては、わたしに乗ったすべての進化の歴史は、文字通り水泡に帰すことになってしまう。
そんな申し訳ないこともないわけで……。
端的な話、子どもを産んだ・育てている人たちは、その約束を果たしたことになると思う。
ところが、わたしは、子どもを産むことはほぼ不可能に近い(らしい)。
生物学的に、ノルマと約束が果たせない。
理由はいろいろ違うけど、世にわたしみたいなマイノリティはたくさんいる。
じゃあ、マイノリティの命に意味がないのかといえば、そうでもない。
そうでもないということを前提に、命の意味を前向きに捉えるほうが大事なのかもしれないし、それがマイノリティに与えられている命題でもある。
(命題。すごいことばです)
生物学的に残せないのなら、それ以外のことで、誰かのいのちにつながるようなことを積極的に行うことが使命になる。
目覚めよ。さらば救われん。


仏教も神道も、もしかしたらすべての宗教は、同じことを指している気もする。
潜在意識は言い換えれば、神であり、仏である。
広がり続ける宇宙は、このからだの中にある。いや、この身は宇宙そのものである。
それを知覚できるかどうかではないか。
色即是空、空即是色
そのとおりではないか。
そして、すでに、ほんとうは、わたしたちは生まれながらに永遠の命を持っている。
伊勢神宮の式年遷宮だって、そういうことを意味している。
永遠というのは、今ここにある。
気がつくかどうかだ。
わたしは学校で生物の勉強をして、進化や「DNA」の知識があったから、気がつくことができた。
けれど昔の人たちはそんな知識はないわけで、
それを宗教として確立していくのはすごいことだと思う。先人の叡智に思いを馳せる。


太古の昔、干ばつの折に必死になった生き延びてきた魚、
なんかちょっと痛いなと思いながら、お腹を地面にすりながら歩いていたワニ、
もしかしたら氷河期に悲しい気持ちになっている恐竜……
そのすべての思いが自分のからだのなかに流れているとしたら。
「それでも生きろ」という信号を、彼らはわたしに送り続ける。
間違いなく、あなたのなかでも同じことが起きている。
意味なんてない。自分で自覚できる表層意識なんてちっぽけなものなのだ。
もっと深いところで、自分のなかにある自分でないものと、つながってみればいい。
生命である限り、わたしたちはただ生きていくだけだ。



心理学では癒されなかった幼少の頃の記憶が大人になっても残ったままになっていることを「インナーチャイルド」という。
傷ついた自己、というべきか。
甘えたくても充分に満たされなかった、ほんとうは癒されたかった、
そんな傷ついて救われなかった子ども時代の記憶が深層心理(潜在ではない)のトラウマになり、大人に成長してからも悪さをしでかすことがある。
ま、わたしのなかにもいるので、持てあますことは多々あるのだが。
「ホ・オポノポノ」では、その心理学的な深層心理のインナーチャイルドとは別に、
「潜在意識をインナーチャイルドと捉えなさい。そしてそれを癒しなさい」とある。
心理学用語でのインナーチャイルドとは似て非なるもの。
生物としての記憶のありよう(潜在意識。いのちの記憶)を、子どもを慈しむイメージで癒しなさい、ということだ。
「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」「許してください」という言葉をかけることが、「ホ・オポノポノ」でいう潜在意識と協調していくことのカギになる。

大いなる潜在意識の存在。もしかしたら、すでにみんなは知っていることなのかもしれない。
わたしは知らなかった。親からも、学校でも教わらなかったし。
先日、潜在意識のありかをはじめて認識したとき、呆然として、
利益なんて一切顧みず、わたしを応援し続けているいのちの記憶に対して
「今までごめんね」の気持ちになった。「いつもありがとね」と感謝した。
「大好き。愛している」の気持ちになった。
先日デザイナーのO氏と、インナーチャイルドの話をしていたら
彼は潜在意識のことを「卵のようなイメージだ」と言っていた。なるほどね。
それもとても素敵。
眠るときに卵を温めているイメージをもって潜在意識をとらえると、やすらかな気持ちになる。


佐藤富雄氏の「潜在意識と宇宙がつながっている」というくだりが、なかなか理解できなかったのだが、今ならわかるな。
だって、潜在意識って、DNAレベルの話だ。
そりゃもう宇宙。間違いない。



『みんなが幸せになる ホ・オポノポノ』イハレアカラ・ヒューレン 徳間書店・1500円+税
初版が2008年9月。わたしの手にした本で2009年2月10刷(出版人として、大きなため息)。うらやましい(爆)。

厳密にいうと、この本では
顕在意識が母的なもの、潜在意識がインナーチャイルド(つまり子ども)、
潜在意識が満たされて、顕在意識にプラスに投影された場合にはじめて
超意識(父的存在、すなわち神の領域)にいけると書いてあります。
そのへんの整合性はまだ未確認で、正直、言葉の当て込みができません。
取り急ぎ、わかる範囲でわかることを。
必要があれば、謎は必ず解けることでしょう。
仏教でいうと、今のわたしの状態が小乗で、大乗が別にあるということですな。
悠々と急ぐことに。

潜在意識にはたらきかける

2009年2月10日 (火)

以前はビジネス書にのみにあった成功哲学が、
最近はもっと汎用性をたずさえて、さらに身近なところにあります。
そのひとつが啓蒙・心理系の書籍。ブームはしばらく続きそうです。
このジャンルで、いち早く「口ぐせ理論」なるものを確立したのが佐藤富雄さん。
ポジティブにいきましょうとか、こうすればもっとよくなるといった
最近の啓蒙・心理系には、この理論をベースにしたものが多いように思われます。

いま人気の「手相を書いて運をつかむ」「新月に祈りを書く」などに共通して言えるのは
「いかにして潜在意識に訴えるか」ということです。
口ぐせ理論も、潜在意識に訴えて、活用するというもの。
潜在意識、わかるかな。スピリチャルじゃないですよ。脳科学の話。
顕在する意識のもっともっと奥深く。
自分では確認できないところにある意識が潜在意識=無意識(フロイトが臨床しました)です。
潜在意識と交信できる数少ない場が、夢、といったところでしょうか。

自分で知覚できない意識、潜在意識。
これをいかにうまくコントロールできるかで、人生は思うようにハンドリングできるといわれています。
意識できない意識だけれども、人の行動パターンの多くは、この潜在意識に支えられています。
たとえば、子どものときに自転車に乗る練習をしたでしょう(自動車も一緒ですけど)。
乗り方を意識して覚えるでしょう。
でも今、大人になって、自転車の乗り方を意識する人はいません。
潜在意識にすり込まれているので、ああだこうだと考えなくても乗れちゃいます。
潜在意識はあなたが意識しない意識のこと。
つまり、あなたが認識していない力が、あなたのなかに未曾有にあるということ、まずこれを知ってください。脳科学的な話、ですよ。
潜在意識をうまくはたらかせることができたら、その力を発揮できるというわけです。

潜在意識を悪いようにもっていくのは簡単で、
「わたしにはできない」「わたしには力がない」「わたしは無能」「わたしはブサイク」……
するとイメージした(限定した)とおりの自分が実現します。
それを「わたしにはできる」「企画力がある」「魅力的な顔立ちをしている」などの前向きなキーワードに置き換えていくだけで
潜在意識がプラスにはたらきはじめます。
「できない」「だめだめ」のストッパーをはずしてあげるだけのことなのです。
「いや、そんなハッタリかませられないわ」というのは、この際棚上げしてください。
イメージすることが大事なの。
すると、そのイメージどおりに、潜在意識がはたらきはじめ、からだを動かします。
ついでに、潜在意識は自律神経系との繋がりが強いということも覚えておきましょう。
マイナスイメージを抱えていると、自律神経失調症的に体調が劇的にすぐれなくなります。
頭痛、目眩、吐き気に発熱……オンパレードです。
自律神経失調症の人でハッピーライフを送っている人なんて、聞いたことがないでしょ?
逆に、ハッピーな人は自律神経失調症にはならないのです。
※これらの症状は深刻な病気のこともありますから、該当する場合はかならず医師の診断を受けること。これは必須。

手っ取り早く、自分の潜在意識に「できる」「いけてる」ことをすり込むこと。
刷り込みさえすれば、潜在意識のほうで勝手に動くから、描いたことができるように知らない間にはたらきまくるのです。
思わぬアイデアが浮かんだり、抜け道を考え出したり、願い事がかなったり……
運気があがると感じるのも(先の手相や新月系ね)
実は自分で(潜在意識が勝手に)、実現への道を切り拓いているというわけです。

潜在意識を上手に活用するために、手っ取り早くなにをすればいいか。
まずは、「でも」をなくすこと(物事を否定で受け止めない・返さない)。
自分を心から褒めること、いいところを認識すること。
自分の力を限定しないこと。「できない」は「きっとできる」に置き換える。
もうひとつ、大切なことは
眠る前に、満たされていてしあわせな自分の状況をうまく描くこと。
「あれができなかった」と反省しながら横になるのではなく
愛されている自分、満たされている自分、明日はもっとさらに力をつけた自分を
想像しながら横になる(はじめは無理矢理でも、そのうち慣れます。慣れたらしめたもの)。
いいこと・満たされていることを全身で感じることって、とても大事です。

自分の力を限定してしまうことほど、もったいないことはありません。
それでしんどくなって体調くずしちゃ、元も子もない。
きちんと自分を肯定して、潜在意識の力をオンにすること。
それが成功(もしくはハッピーライフ)への近道なのだと思います。
もひとつ言うとそれは、果てしなくひろげられるプラスの想像力ということです。

自分で学びなさい。

2008年12月21日 (日)

たとえ駆け出しとはいえ、編集者としてお金を稼ぐ立場であるならば
プロとしての自覚を持つことです。
まず、わからないことがあれば自分で調べる。疑問を持てるのはさいわいです。
そしてわからないことを放置しない。

たとえば、戻ってきたデザイン校を、転記するなら素人でもできる。
その意味を理解し、よりわかりやすく印刷所のオペレーターに伝えるのが、編集者の役割です。
自分がわかりもしない文言を書き写して
トラブルにつながったら、どう責任をとりますか。
「知らなかった」ではすまされません。

まず、わからないことはなにかを明確になさい。
そして、せめてていねいに、誠意を持って取り組みなさい。

「これは初めてです」「教えてもらっていません」が仕事で通用するのは3か月まで。
なにをするのも同じです。
わからないことは、自分で学ぶのです。だから伸びることができる。
もちろん、わかる人を捕まえて尋ねてみるのもいいし(周りにはプロフェッショナルだらけです。みんな、尋ねたら親切に答えてくれます。しかし訊くタイミングには気をつけること)
言葉の問題なら、辞書を引くだけでも解決できることは多いはず。
昨今なら、WEBで検索すれば、たいがいの答えは得られます。

ついでに。
「ごめん」ですむなら、警察はいりません。


なにかひとつのきっかけがあって、それを調べること。
その先もついでに調べておくこと。いっそう深く掘り下げたりすること。
知識はそうでなくては広げることができません。
知識は、あなた自身の好奇心にのみ呼応します。

教えられるのを待つしかできないならば、
残念ながら、あなたは編集者には向きません。
いいえ、編集者だけではなく、どの道だって同じこと。
待つだけの人が、道をきわめることはできないのです。

白い杖を見かけたら

2008年7月 6日 (日)

今日は、編集者としてとか、仕事をする上で、という以前の問題です。
もしもあなたが駅で、白い杖の人を見かけたら、迷わず手を貸してほしいと思います。
「恥ずかしい」とか「逆に迷惑なんじゃないか」とか考えるより先に
確実に動いてほしいと思います。躊躇・遠慮はこの際どうでもよろしい。
白い杖は、あなたに対するSOS。
とくに駅や横断歩道では、彼らは助けを求めたいのです。
助けられる相手は、もちろんあなたで構わない。

白い杖は「目が見えない」ことのアピールです。
アピールです。妊婦が「妊娠してます」バッチをつけるのと一緒。
フォローが必要なのです。
いくら通い慣れた通学路・通勤路でも、人の多さに勘が狂うことも多く、
また人の流れは障害物競走にも似て、とにかく歩きにくい。
健常者のサポートが不可欠です。
あなたのすべきことは、彼ら視覚不自由者が階段を安全に登れるように、
ほかの乗客と一緒に電車を待てるところまで、アテンドすることです。

声をかけるときは「一緒に行きましょう」「さ、一緒に行きますよ」でいいと思います。
手をつなぐのはよろしくありません。不安定です。
あなたの肘のあたりを持ってもらうか、肩に手をかけてもらうか、どちらかがいいでしょう。
階段の始まりには「はい、階段です」とか伝えてあげると親切だと思います。
同じように終わりには「最後の段ですよ」とかね。
ホームに着いたら、できれば「何号車がいいですか」まで聞くこと。
目的の車輌位置までアテンドして、彼(彼女)がほかの乗客と並べるようにします。
もしもあなたと車輌が違っても、
そこから先は、その車輌の乗客が車輌への乗車をきっとフォローしてくれます。
それまでのあなたのアテンドを見ているから、やりやすいのです。

これはもう善意とか、親切とか、そういうレベルの話ではなく、
日常的な普通のこととして、白い杖を見たら即座に行動していただきたいことです。
あなたが誰かを助けることがあれば、
あなたがつらいとき、誰かの手を借りることもきっとある。
特別なことだと思わずに、躊躇や検討、遠慮する前に、まず手を貸すこと。
これがいちばん大事。

視覚障害者に限らず
たとえば松葉杖で駅の階段を登る人がいて、もしもその人が荷物を持っていたら
荷物を代わりに持つくらいのアテンドをしましょう。
だれも「盗られる」とは思いません。それよりも先に困っていますから。
つきなれない「松葉杖」で「階段を登る」だけでもたいへんなのに、「荷物まで」あるんですから。
もしも見知った人がいたら、必ず荷物を持ってもらうに違いないのです。
もしもあなたが松葉杖経験者なら、このハードさ、きっとわかると思います。

あとは横断歩道の車いすも気をつけてほしいところ。
自分で動かすの、車いすって結構たいへんです。
交通量が多いところではわりに危ないのです。
ただ電動車いすなら話は別。これは触るほうが足手まといになりますから気をつけて。
手動で車輪を回している人を見たら、フォローすべきと考えましょう。



困っているときはお互いさま。
それはもうほんとうに。
もしも相手の困ったところを察することができるなら、極力解消するように努めましょう。
聴覚障害のある人になら、聴こえるほうの側から話しかけるとか。
どちらが聴こえやすいのかは、話を聞くときに顔が傾くのでわかります。
ただ、たしかに視覚障害者ほどはわかりやすくはありませんね。
けれど、ゆっくり、滑舌よく話すだけでも、かなり聞き取りやすくなり、会話がスムーズになるのです。

特別なことじゃなく、あなたが普通にできることを、普通にやるだけです。
それは健常者の義務でもあると思います。
……健常者、という言葉には若干「?」と思わないでもないですが、それは置いておいて。
なにか不自由を抱えている人に対して、少しだけ敏感になっていただきたいと思います。
そしてもしも「DO」に対して、遠慮や躊躇があるのなら
「言ってる場合じゃない」ことを、どうぞ認識してください。

編集者の宝物

2008年7月 3日 (木)

宝物はずばり、スタッフです。
一緒に仕事をしてくれるクリエーターたち。
デザイナー、カメラマン、イラストレーター、スタイリスト、ヘアメイク、モデル、ライター……
彼らなくして、我々は成り立ちません。
彼らがいなければ、我々は丸裸の能なしです。
編集者ひとりでは雑誌をつくることは決してできません
あなたの思うものを、思う以上のかたちにしてくれるのが、クリエーターです。
ちょっと乱暴ないい方をすると

編集者の究極の仕事は、彼らのために動くこと、といっても過言ではないほどです。

あなたが彼らをリスペクトすることが、いちばん大事。
すべきことはそこから見えてくるでしょう。

まず、
彼らが動きやすいように段取りすること
彼らが120%自由に動けることを目指して、編集者は仕込みをすべきです。

デザイナーになら、やりたいことがきちんと伝えられるサムネールを仕上げて渡す。
カメラマンになら、いい環境を整え、情報を開示し、撮影の用意を怠らないこと。
彼らがより自由に動けるように仕込み、現場で立ち回ること。
撮影現場であなたがやるべきはカメラマンのフォローです。
たいていは取材相手があることですから、ややこしいことはすべて自分が引き受けるつもりで。

イラストレーターなら、描いてほしいイメージをきちんと伝えること
誌面の状況、イラストの大きさ、周囲の色、場合によっては細かな資料も必要です。
彼らが120%自由に仕事ができたら、それはそのままいい作品(誌面)につながっていくでしょう。
だから、
彼らの仕事のクリエイティビティのために自分が動くことを
惜しんではいけません。それが編集者の大切な仕事です。

仕上がりを受け取ったら、まず自分の感想を伝えること。
上の人がどう判断しようが関係ありません。いいと思ったらいいと相手に伝えるのが大事。
彼らはあなたと仕事をしたのですから、あなたの感想がまず聞きたいはず。
もちろん「あれ、こんなはずじゃなかった」ときは、その旨きちんとお伝えしますが
NGを出すときは、十中八九こちらにも責任があるときです。
なにか、伝え方を間違えていなかったかをまず省みるべき。気をつけて。

スタッフクレジットには細心の注意を払うこと。
名前のヌケ、表記間違いはもってのほかです。
編集のギャランティは広告に比べて驚くほど安いのです(そして我々のギャラも安い。残念ですが)。
その代わりにあなたは
世の中のすべての人に、お願いしたクリエーターの名を知らしめる義務があります。
クレジット表記は安いギャランティの代わりとして、
あなたが責任をもって確認しないといけないことです。

わたしが若い頃に、初めて上司に噛みついて離れなかったのも、クレジット問題でした。
花博の催事広報誌をつくったときに、上司から「ノークレジットにする」と言われたのです。
会社間の問題があったようでした。
でも、こちらはクリエーターへの責任があります。
「抜くなら辞める」くらいで噛みついたかと思います。あれは、編集者半年目のことかな。

編集者が守らなくてはならないのもクリエーターです。
少ないギャランティだけれども、滞りなく支払うように細心する。
もしもクリエーターの立場が悪くなるようなことがあれば、フォローに入る。
仲裁する。
基本です。
絶対に守ってあげてください。おそらくは、その気持ちが大事なんだな。

そして
自分のとっておきのパートナーを見つけることです
自分のイメージするもの以上仕上げるためには、この仕事ならこの人にお願いすべき……
それがパートナーです。
かっこいい本にしたいからこのデザイナーさん、ユルい本ならあの方かな、とか。
女の子を空気感ごと撮影してほしいならあの人で
花嫁さんをきれいに現場で撮影するならあの人、
的確に商品写真をお願いするあの人、
料理を最高においしそうに撮ってほしいからあの人……
スタイリストも、ヘアメイクも同じです。

今はまだ、年上の人ばかりで気後れするかもしれません。
けれど、今のうちから大御所とおつきあいできるのは、むしろ貴重な体験。
おつきあいを楽しんでください。かわいがってもらえるように。
いつかあなたがクライアントになる日がくるのですから。

自分の若い頃を振り返ると、
同年代の駆け出しのカメラマンで腕のいい方を、貪欲に発掘していました。
で、一緒に成長してきたと思います。
この人の写真が好きだと思ったら、とにかく世の人にアピールしたかったし
大きな写真を撮ってもらうように仕掛けたし
クレジットの級数を上げるように努力しました。
そのへんは、互いにもちつ、もたれつ。
写真に限らず
いいもの・才能を見抜くのも、編集者として大切なことだと思います。


その目を養うためには、とにかくいいものをたくさん見ることです。
「写真がわからない」のであれば、とりあえず
「コマーシャル・フォト」あたりを立ち読みしてみてはどうでしょう。
イラストなら「イラストレーションファイル」。いずれも玄光社刊。
ヒントがたくさん隠れています。
またクリエーター自身に教えていただくことも多かったです。
ま、今もずっといろいろ教わっているわけですが。

わたしも日々いろいろ情報を仕入れるわけですよ。
のんちゃんたちのみずみずしい感性に、ひょいと追い越されないように。

アゲアゲでいきましょう

2008年7月 2日 (水)

簡単です。
ブルーな気分になる相手とは、できれば一緒にいたくない。
恋も仕事も同じです。
だれかとお話するときに、相手の気持ちを下げない話し方というのがあります。

「でも」を使わない。これは基本。
言葉の意味をあまり考えずに「でも」を使う人をよく見かけます。
言葉のセンスの問題ですが、これはソンですよ。
あなたは普通でも、「でも」には割と強力な否定の意味があります。
「天気がいいですね」
「でも、明日も天気がいいんですって」
みたいな受け答え。
 でも → そうですね
言ってるほうは「そうですね」の気持ちでも、受け手は軽く自分を否定された感を持つの、否めません。
「でも」の代わりに「そうですね」と言うクセをつけてごらんなさい。アガりますから。少しずつ。相手が。
言えなければ「でも」は飲み込む。ごっくんです。

同様に、
少し前に流行った「逆に言うと」もいけません。
あなたが逆に言わなくていいのです。これも、言いかけたら飲み込んでください。

あとは
マイナスのことを言わないこと
瞬間判断で、マイナスかプラスか、言葉を判断しましょう。
たとえば、こんな言い換えです。前者がマイナス、後者がプラス。
「雨が続いていやですね」→「もうじき梅雨が明けますね」
「毎日真夏日なんですって」→「こんな日に海にいったら気持ちいいでしょうね」
「寒くてやになりますね」→「熱燗ひっかけたらうまそうですね」
……あれ、無理があります? 
まあまあ、それはよしとして、つまりはそういうことです。
世間話をするときに、できればプラスの話に持ち越せること、これ大事です。
マイナスの言葉を発せられた場合も、上記のようなプラス返しで対応します。
人間、愚痴ったらキリがありませんから。
できるだけそういう言の葉を、自ら口にしないことですね。
口がゆがみますから。

で、
相手のいいところを見つけたら、積極的に褒めるようにしましょう。
素敵だなと思ったことはてらいなく口に出せばいいのです。

もうひとつ、
相手のいうことをよく聞くこと。
上手にしゃべれる人なんてそうそういませんから(自分事をしゃべるのは論外。おそらくあなたの身内の話も、相手はたいてい聞くのがつらいはず)
相手に話をさせるように水を向けるほうが得策です。
居住地、出身地、趣味(ちょっとリスクあり)、TVなどなど
相手に合わせて話題をふってみればいいでしょう。
あなたがそこで相づちを打ちながら上手に聞けたら、相手の気分はきっとよくなるはずです。

で、フリでもいい。
あなた自身が楽しそうにしていること。
笑顔でいること。
すごく大事です。

あなたと別れるときに、相手が楽しそうであるように。
それはちょっとした技術から始まります。
ん~、恋も仕事も。

ホスピタリティ

2008年7月 2日 (水)

「ホスピタリティ」という言葉はみなさんよくご存じでしょう。
うちはホテルの取材が多いから、ホスピタリティとファシリティ、2日に1度は書いていませんか。
ホスピタリティ=客のもてなしのよいこと ※手持ちの自由国民社カタカナ外来語辞典より
このホスピタリティ、なにもホテルの専売特許じゃありません。
編集の仕事のうえで、ホスピタリティを発揮していますか?

相手に言われたことを、そのままやるのは超基本です。
さてその上で。さらに一歩先。
相手が望むことを察して行動を起こすことだったり、
相手が少しいい気分になれることをプラスしてみたり
楽しくなれることをちょっぴりプラスしたり
場の空気をやわらかくしたり
それらすべてホスピタリティといって差し支えないでしょう。
相手を大切にしている気持ちを、上手に伝えられることといってもいいでしょう。

編集者というのは、基本ホスピタリティが信条であってほしいと思います。
(流儀が違う人もいるでしょう。それはそれ。おいといて、ね。力量勝負の編集者なら、それもありかもね)
対スタッフであったり、対版元であったり、もちろん対取材先であったり、
対象はさまざまです。
しかし、あなたが触れる相手みな、あなたと接したあとで、快くなってほしいと思います。
かくいうわたしもまだまだまだまだですけれどね。目指したいところです。

同じレベルの仕事をする人がいるのならば、だれもが気分がいい相手と組みたいに決まっています。
そして、あなたと同じ仕事ができる人は、ごろんごろん世の中にいるはずです。
あなたでなければいけなくなる理由があるとすれば
プラスαがあるかどうか。
それがホスピタリティに代わります。

この話はどんどん広がりますから、追々お話していきましょう。

「どうしてしんどいの?」

2008年4月15日 (火)

「いやなことをしていてしんどいのならわかります。
でも、なりたくてようやくなった編集者なのに、
仕事をしているとどうしてつらく感じるのでしょう」

なかなかいい質問です、のんちゃん。
好きなことをしているはずなのに、なぜしんどいか。
それは、今やっていることを、真剣に好きなせいではないでしょうか。

好きになって、しかし相手の全貌は見えなくて、必死に取り組んで
でもぜんぜんままならなくて、悔しくて、しんどくて
自分がだめだめなような気がしてきて……。
それは真剣に取り組んでいるからこそ起きる現象です。

真剣になんとかしたいとはたらきかけるから、しかし相手はでっかいもんだから
そういうことが起きます。

なにかをほんとうに学びたいと思ったときに
その縁に立って、相手のあまりの深いこと、大きなことに、漠然としたことはありませんか。
ちゃんと考えるから、自分の小ささを思い知ってしまうのです。
でも、それは悪いことではありません。
すべてはそこから始まるのですから。

編集をしていて、うにうにになってきて、しんどいと思うなら
それはあなたが真剣にやっている証拠だと思います。
真剣じゃなければ、案外楽しい楽しいばっかりでやっていけます。

それは人を好きになったときにも似ていますね。
相手を好きになって、でもままならなかったり、思いがうまく伝わらなかったり、
自分がストレートに通じないときに、つらいと思うことになるでしょう。
それは、真剣に人を好きになっているからで、
だから相手に受け入れてほしいとも思うし、我も出るだろうし、欲もある。
もちろん、すべて受け入れてもらえるわけではないでしょう。
せつなくてつらくて、でももともとは、自分で選んだ「大好き」です。

編集に限らず、お仕事みな一緒。
なにかを極めるのはしんどいことです。それがおそらく普通です。
それに気がついたなら、それは序章。
なにかが始まるのはこれからです。
さて、これからいくつ楽しいことが見つけられるでしょう。あなた次第です。

年齢は関係ない

2008年4月 5日 (土)

「少女と老婆は紙一重」
たしか、唐十郎のお芝居のなかの台詞だったと思う。
相手を知るときに年を聞くのが無粋だと書いてあったのは、『星の王子様』だっけ?

たとえば自分は23歳。目の前にいる相手は30歳。
目の前にいる30歳を、年相応の大人だと思うから、構えてしまったり萎縮することはないだろうか。
相手の年齢に惑わされてはいけない。
人には実年齢とは別に、絶対年齢みたいなものがある。
実年齢30歳が、身も心も30歳的に美しく成長しているとは限らない。
30歳でも、絶対年齢は22歳……あるいはあなたより年下の人だっているかもしれない。
生きてきた時間にきれいに比例して、だれもが同じように成長するわけではない。
もしも人の成長速度が一緒だったなら、恋人たちは永遠に別れることがない。

相手の年齢に期待してもいけないし、年上だからと構える必要は皆無。
相手をできるだけ正確に捉えようとするなら、年齢にとらわれないことだ。
そのほうがたぶん、正しく人を認識できる。
それでも年齢が気になるなら、せめて相手の絶対年齢を見極める力をもってほしい。

自分の年齢についても同じことで
その年齢に逃げないこと。自分で作った年齢のイメージに固執しないこと。
「23歳で若造なのに、こんな仕事を任せられるなんて、無理」
「まだ30歳なのに、こんな重大任務を負うなんて」
なにかができないのと年齢は、まったく別物。ただ、年齢を言い訳にしやすいのも事実。
できないのは年のせいではない。別の理由があるはずなのに。
そこを見ずに、理由を「年齢」にすげ替えたとたんに、成長はぴたりと止まる。
恐ろしいことに。

いつだって今、目の前にあることを着実にこなせばいいだけの話。
できるかどうかではなく、やりたいかどうか。
もしできなかったら、そのときに最善のことを考える。
やりたくないなら、なぜかを考えて、やりたくないと言うべきだ。
よりリベラルな状況にあるならば、
力のある人には相応のことが降ってくるだろう。
降ってきたことはいつだってチャンスになる。
神様は、あなたにできないことを、あなたの上には降らせない(いや別に宗教的な話じゃなくてね。喩えとして)

こと編集の仕事のおいては、23歳が、30歳や40歳にオーダーしてもいいし、
もちろんクレームをつけても構わない。
もしそこに制限があるならば、若い時分には一流のスタッフと仕事ができないことになってしまう。
あなたがその仕事をどれほど大事にしているか、大切に思っているか。
問題はそこだけだ。
それがベースにありさえすれば、相手の年齢もキャリアも関係なく、人との関係は常に対等だ。
もしも「小生意気」だなんて言われたら、相手の器が小さいだけだと流せばいい。
真摯に対応していれば、やがて周りがついてくる。
それまで年齢を理由に凹まないことだけが、あなたの課題になるだろう。

ちなみに、年端がいっている人も同じこと。
「もう年だから」と限定しては、すべての可能性は潰えてしまう。
「年下のくせに」と見限っていては、大切なことを見落とすだろう。
いくつであっても、いくつになっても、
新しいことにワクワクする、おもしろいと思える、未経験を楽しむ余裕がある、
そんなみずみずしさとしなやかさをそこなわずにいてほしいと思うし、
そうありたいと願う。

ヘコんでなんているなよ

2008年3月30日 (日)

アーティストのなかで、自殺者が少ない業種は、フォトグラファーだと聞いたことがある。
興味が被写体、つまり外へ向いているせい? ともいわれる。
編集者はどうだろう。ときどき心を病んでしまう方、お見受けします。


たかが仕事だからね。
うまくいかなかったくらいで、心を病んではだめ(気に病むのは仕方がない)。
いったいいつから、人生でいちばん大事なものが仕事になっちゃったの?
ほかに、好きなこととか、大事なこと、あったはずだよね。
乗り越えられないくらいベコベコにへこんじゃったり
本気で死にたくなるくらいなら、仕事なんて、やめちゃえ、やめちゃえ。
どんな仕事だってね、あなたの命より大事な仕事なんてありませんよ。
仕事は生きていくための食い扶持です。ここ大事。
なかには生き甲斐にする人もいて、それは決して悪いことではないけれど
年端もいかない若い人たちが仕事を「生き甲斐」にしているのもへんてこなんだから。


わかりました。今、あなたはヘコんでいます。
なにをすればいいか。
まずは「今ヘコんでいる」自分を正しく認識しましょう。「わたしはヘコんでいる」
そこから少しずつ、上げていきましょう。無理矢理じゃなくてかまいません。
まず周りをみて、「いいな」と思ったことを10個挙げてみる。
「天気がいいな」「空がきれいだな」「かわいい猫に会ったな」「おっ、いい男」とか
そんなレベルで構いません。
電車のなかを見回して、目に映った人を心のなかで褒めてみる。10個。
「素敵なスカート」「マスカラがじょうず!」「姿勢がきれいだな」「表情がいい」
ではそろそろ真打ち。自分のことを褒めてみる。
今日の自分のいいところ、できれば5つ。難しかったら3つ。
「いい電話の対応ができた」「お茶をおいしく入れられた」「時間より早くアップできた」とか、なんとか。
今日、できるようになったこと、まで挙げられたら完璧。
そのとき、自分の変化に敏感になってください。

なぜそんなことをするかというと、
脳内の快楽ホルモンを意識的に出す、というのもあります(褒める練習をしていると、快楽ホルモンは出てきます。すると気持ちはラクになる)。
しかし、それ以上に、みなさん、自分の悪いところばかりを見過ぎなのが気になります。
悪いところやできないことなんてね、あるのが当たり前で、
それを修正したり、落とし前つけたりするのが、人生なんですから。
あなた、自分のことをかわいがるわりには、わりと容赦なく責めますね。
できなかったことや、うまくいかないことなんかを、
自分に対して、退路を確保せず責めたりしていませんか。
(相手の退路を残して責めるのが、喧嘩のセオリーです)
そこはもう少し自分に甘くなりましょう。今日できなくても1か月後にできていればいい話。
今日できるようになったことに気がついて、自分で褒めてあげてください。
自分のことを心から褒めてあげてほしいと思います。
(脳内快楽ホルモン、分泌!)
もっと、いい気になっていいんです。で、ほんとうに、自分の味方になってあげてください。


たとえば、遅刻をしたときに。
ご迷惑をかけた皆さんにはとにかく平身低頭謝りたおすわけですが、わたしの場合だとどこかに
「でも、結果、寝ちゃってラッキー」と舌を出す自分がいるわけです。
そりゃそうです。寝坊してようやくたっぷり眠れたわけですから
遅刻はいけないことですが、眠ったことはラッキーです。
悪い状況を、視点を変えて、いい状況へと言い換えてみる。
ちょいと練習は必要ですが、この視点の変え方も有効です。

誤植をした。それこそ取り返しのつかないことですよ。
でも本当に本当に取り返しがつかないかといえば、そうではない。
少なくとも、雑誌の誤植くらいじゃ誰も死にません。
ならば、なんとかなるし、つなげられるのです。
誤植を通じて相手に謝ったり、迷惑かけた先にお詫びに行ったりしているうちに
そこでしかつかめない新たな人間関係が築けます。
怒られるのは恐いけどね、こちらも真剣、道は開けます。
よく言われることですが、ピンチはチャンスです。
わたし自身、振り返れば、今仲よしの取材先は、じつはピンチがらみが多いです。


自分に優しく。多少自分に甘くても構いません(ただし、人にあからさまにバレないように。カッコ悪いしね)。
ストイックなところでどんどん伸びていく人もわずかながらいますが
最近の人たちの多くはそうではありません。
褒められたらうれしい。ならば、ちゃんと自分を褒めてあげられる人になってください。
そうすれば、あなたは別の人のことも、ちゃんと褒めてあげられる。
いい気持ちはきっと連鎖して、新しいものを産めるでしょう。

「産める」で思い出しました。もうひとつ、大事なこと。

女性がヘコむのには、月のリズム、生理のバランスがあることを覚えておいてほしいのです。

つまり、生理初日から12~14日くらいの排卵までは、比較的アッパーだし、元気。

ところが排卵から生理がくるまでの2週間は、ややどんよりしてしまうはず。

しようがありません。からだはここで疑似母というか、偽妊娠やっているわけで、

その時期、仕事の性ではない。わかるかな? 女性は仕事性ではないのですよ。育てる性だからね。

なので、この時期にとくに仕事についてナーバスになる女性は多いのです。

ここでヘコむのは、あなたのせいではない。性のせい。なんちゃって。いや、まじめな話。


ヘコんでなんかいるなよ。
気持ちの置き方は手練手管なんだから。
ヘコんだ気持ちを溜めるなよ。
作品で昇華する、できないなら、グチ言いまくれ!

普通なんて目指すな

2008年3月30日 (日)

みんなができることを自分ができないからといって落ち込むな。
できないことはあなたの「個性」なんだから。自信を持ってほしい。

ゼロハチマルの入社試験のひとつに「一芸」がある。
つまり、会社としては、バランスよくなんでもできる人にあまり食指は動かず
突出してひとつのことを極めようとする人に、めっぽう惹かれてしまうのだ。

ひとつのことをとても上手にできるのならば
それと引き替えに、できないことがいくつかあってもいいじゃないか。
ものすごくいい小説を書く人が、家庭人としてはてんでだめだったり、
いい絵は描くけれど、一般常識はまったくなかったり、
そんなの世の中にゴロゴロしているでしょう。バランスなんて悪くても構わない。

だから、できないことをくよくよするな。
くよくよするくらいなら、開き直っちゃえ。それは個性だ。
たぶん、人並みになにかができないということは
あなたのなかに、人並み以上にできるなにかがあるという証しになる。
そこを極めていけばそれでよし。

もしも、のんちゃん。
泣きながら仕事をするほうが本当にラクなら、そうしてみよう。
ほかの人にマネできない仕事のスタイルは
きっとほかの人がゼッタイできないページをつくることになるよ。
そうだな、30才くらいになって泣かずにすむようになっていればそれもいいし
そのときもやっぱり泣きキャラだったら、今よりもっと自信をもてばいいと思う。
なんかドラマチックじゃん。つきあうよ。

なにもかもを普通にソツなくこなせたからって、
たしかに生きるのに便利かもしれないけれど、それ以上でも以下でもない。
普通にできなくてもいいじゃん。
あなたはあなた、わたしはわたしのやり方で。
互いにそれを認めあえるなら、それがいちばんだよ。

自分の頭で考える

2008年3月30日 (日)

編集者に限らず、おしなべて、仕事をしていくうえで大切なことが
自分の頭で考えるということ。

たとえばなにかの指令が来る。
その指令に対して、言われたことを首尾よくできたら、褒められるかもしれない。
ひとつの指令に対して、言われたことがちゃんとできる。いわばこれはベーシック。超基本。
上のステップにいくならば、
次に似たような指令が来たときに(またかならず来る。これは法則だから)、
その同じ指令について、どうすればラクにこなせるか、
どうすれば言われた以上にまで仕上げることができるか、に考えを及ばせてほしい。

10言われて、6,7のコトができたら「普通」だし
10言われて、2,3しかできないなら……「論外」。
できる人は、5言われても、10できる。
なぜか。
想像力の問題だ。
自分に仕事を依頼している相手の、いちばん欲しているところはなにかを
想像することができるからだ。
想像というのは、いたずらに空想するわけではない。
相手を観察しながら、予測をつける技術。言外を読み取る術。
自分の頭でしっかり考えるということだ。
思いやりという言葉に代えられることもある。

どのシーンでも同じこと。
今一緒にいる相手が欲していることはなにかを察する。
電話のむこうの取材先の担当者が、メールの向こう側にいる版元の担当者が、
撮影しているカメラマンが、デザイン入れしているデザイナーが、
そのとき本当に欲していて、行きたい先はどこなのか、言いたいことはなにか。
想像して、考えて、今自分にできる「相手に必要だと思えるもの」を差し出せれば、それでいい。
自分の頭で考えること。
これが、すべての仕事の基本。
……もしかすると、恋愛だって似ているかもしれないよ?

考えるクセがついたら、すべてについて考えずにはいられなくなる。
そうすれば、できること・できないことがおぼろげに見えてくるはずだ。

さて、これで、あなたはスタートラインに立ったというわけです。