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雑誌編集者を目指して、上京。
トラの穴で編集プロダクション生活をスタートさせたばかりの「のんちゃん」(23歳女子)に贈る
編プロ・トラの穴的 おこごと、仕事のコツ、ラクの仕方と、社会人的たしなみと。

順不同でまいります。
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編集経費ってなに? その3…ピンからキリまで

2019年8月17日 (土)

私が編集者になりたての1990年はバブルの終わりで

編集経費が潤沢にあることこの上ない時期。

当時を知っている人と話をしていると豪快な思い出話がたくさん飛び出してきます。

深タク(深夜タクシー)をいかに普通に使っていたかとか(もちろん全部経費)、

手厚い夕食と夜食(もちろん経費)、

アフリカ取材のときに、現地でアフリカ象を買って経費で落とそうとしたとか(おそらく撮影経費)、

女の子の情報を集めたいからテレクラでリサーチし、その分を編集経費で落とすとか、

とか、とか、とか…。

そういうことに目くじら立てる人は少ない、おおらかな時代でした。

 

私の1990年は

「国際花と緑の博覧会(花の万博、または花博)」の催事広報室に出向し、

広報誌と催事記録集を制作していた頃。

スタッフ参加のパーティのじゃんけんゲームで運良く勝ち残り、

10万円のゲンナマを獲得しました。

広告代理店関連の上司たちがみなさん、羽振りよく、お金をどんどんのせるので

賞金があれよあれよという間に上がっていくんです…。

そのお金で購入させていただいたタンス(下写真)は、今も大事に使っています。

たしか私の出向料は40万円くらいで、出向元の編プロからもらう私の給料が

当時は12万円くらいだったと思います。休みはほぼなし。

安いけど、前職の大学副手と比べると、それでも雲泥の差だと感じていました。

「効率のいい子」だったわけです(汗)。

 

飲食情報ムックの黎明期の制作経費もなかなかです。

500軒ほどの店情報がカセット形式で掲載するスタイルで

A4変形120ページで、創刊時の製作経費は2000万円くらいだったそうです。

今では当たり前になっている、情報をフォーマット化して掲載するスタイルが

当時はとても新しかったのです。

私が担当していたブライダル誌も、創刊時はたしかA4変形120ページ

1600万円のギャランティだったように記憶しています(1993年)。

 

私の担当分で編集経費が超越していたのは、

ファッションクリエイターの連載(女性誌)で、

2ページで90万円(1994年)。

現在も大河ドラマや映画、演劇などの第一線でご活躍のベテランスタイリストさんで

東大の赤門前にハーレー2台を置いて、外国人女性モデルを5人投入、

もちろん著名なフォトグラファーをブッキング。

みなさんのギャランティと、ハーレーのレンタル料、ロケバス、食事の手配、諸経費で、

しめて90万円、どーん。

最初は赤門前じゃなく、「日光東照宮で撮影したい(ハーレーと外国人モデル持ち込み)」がご要望でしたが

日光東照宮からの許可はいただけませんでした、残念(ほっ)。

だって日光東照宮がロケ地な   ら、さらに経費はアップしていたはず…(大汗

編集経費もバブバブしていた華やかな時代でした。


 

あれからもうじき30年。

時を経て、やがて忘れられていくことなので、残しておこうと思いました。

バブルから出版不況まで余すことなく味わえるのは、奇特なことじゃないかしら。

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