雑誌編集者を目指して、上京。
トラの穴で編集プロダクション生活をスタートさせたばかりの「のんちゃん」(23歳女子)に贈る
編プロ・トラの穴的 おこごと、仕事のコツ、ラクの仕方と、社会人的たしなみと。
順不同でまいります。
つまみ読み、どうぞ。
気が付けば、編集者になって25年。
「気が付けば」という言い方が正しいと思います。
「この仕事をずっと続けるぞ」とか「石にかじりついてでも頑張ろう」とか
思ったことはありません。大義名分もないし。
続けてこられたのは、偶然のつらなりです。
性格は、飽き性だし、根気もないし、ガマンがきかないタイプだし、人から指図されるのが大嫌いなうえに負けず嫌いだし、
「努力」と「根性」ほど苦手な言葉はないし、どれもいまだにあてはまります。
なりたくて編集職に就いたわけではありません。
学生の頃はむしろ、編集者にだけはなりたくないと思っていました。
当時は書籍の編集しか範疇になかったので、「あんな地味でしんどいもの、ヤダ!」って。
しかも自分が作品を書いて世に出たいのに、
なにが楽しくて人様(作家)の作品を世に出すお手伝いをするのかとつらくなっていました。
ところが「雑誌の編集」というカテゴリーを知るや、「面白そう!」と、今に至ります。
しかも2年限定のちょっとした経験だけのつもりが……気が付けば25年。
人生なにがあるかわかりません。
今じゃ「雑誌もムックもおもしろいけど、書籍もおもしろい!」と思える編集者です。
20年間くらいは、編集の仕事は「好き」ではないけれど、
「向いている」と認識していました。
「楽しくてたまらない」わけではなく、むしろ気持ちはいつもフラットです。
だけど、時間の過ぎ方がものすごくはやいので、「自分に向いている」と判断できるのです。
きっと性に合うのでしょう。
締切があって、ひとつのものが確実に完了し、形になるところが気持ちいい。
みんなの力を合わせると、思いがけないほど素敵なものが出来上がって感動する。
20年過ぎたあたりから、「好き」っていってもいいかなと思っています。
「努力」が苦手と書きましたが、努力という言葉は相対的だと感じるのです。
よい成績をおさめるためには勉強が必要だというのはわかります。
でも、努力ってなんだろう? ずいぶん相対的な言葉なんじゃないか??
好きなものや、興味のあるものに対して、
それらに対峙するあるべき自分に少しでも近づくために
様々なことを学んだり行なったりするのは、
当人にとっては非常に当たり前のことで、そういうことを当人は「努力」とは思わないでしょう。
対峙する自分に、自分が納得するための、切符が欲しいだけです。
それを、時間や回数などが人と比べて多いから「努力している」と言うのは他人だけで
他人目線の評価が「努力」といわれるような気がしてなりません。
当人は夢中なだけで
次元が変われば、同じ行為を「サボっている」と言われてもおかしくないんです、きっと。
一人称レベルでいうなら、努力ではなく、ワクワクです。
気が付けばやっちゃっているだけだし、だれにも止められない。
その先の景色を見たいからやるだけで、好奇心が原動力なのです。
ものを極めていこうとするのはそういうことなんじゃないかと思います。
だから、「勉強しなくちゃ」とか、「磨かなくちゃ」とか、「頑張らなくちゃ」とか
悪いことではないけれど、義務に思うならその程度です。
自分の中に軸がないからどうしても脆弱になる。
極めたいものがあるときの知の欲求って(肉体も含めて)、だれにも止められないんじゃないかしら。
逆に、気が付けばやっちゃっていたり、ハッと気が付けば時間が過ぎていることがあるのなら、
自分の才能はそこに関連する可能性が高いのですから、
自分のありようを見直すのもいいかもしれませんね。
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