それが事実であるがゆえに、ニュースは最高におもしろい。
そこからドラマを読み取るのは、あなたなのかもしれません。
ちょっと使い古しているお手玉(少し穴が開いている)。
触感が、昔のお手玉とは違うな……。中身が大きいみたい。
昔々はお手玉を、数珠玉で作ったよなぁ。なんだったんだろう……
数珠玉がないときは、小豆で作ったけれど、
「贅沢だ」と母が言ってたっけ。
母が作った、サーモンピンクのチェックのお手玉とか、
人形のミカちゃんのドレスと一緒の模様のお手玉とかは私のお気に入りで、
今でも色や触感をよく覚えている。
母に電話してお礼を言うと、「3つくらい軽くできんとつまらんよ」と言われた。
1はこちら。「担任が霊媒師」
http://zerohachimaru.cocolog-nifty.com/news/2011/07/post-3998.html
母は勘の強い人で、たまに不思議なものを見た話を聞く。
その母が、小倉の家にいるときにずっと具合が悪かった(私11~14才)。
いつも微熱があるとか言って、具合が悪そうにしていたし
軽い手術を2回くらいした。後にも先にもそんなこと初めてだった。
まあ、なんだかよろしくない状態が続いていたのだが、
小倉から舞鶴に引っ越したとたん、ケロッと元気になった。
舞鶴に行ってからしばらく経って、母に聞いた話。
「あの家、なにかあったのよ。マリが怖がるから言わなかったけどね。
とくに北側の部屋はひどかった。5分でも横になったら金縛りだったのよ……」
おいおい、その北側の部屋は、私の部屋だったじゃないか!!
毎晩寝とったっちゅうねん!!! ぞぞぞぞぞ……。
母曰く、「大きな桜の木のせいじゃないか」と
(私は今も、そうは思わない。ほかの理由があったはずだ)。
家に覆い被さるほどの木があると、よろしくないという。
障りは主婦にくるらしいから、きっとそのせいじゃないかと言っていた。
じゃあどうして北の部屋だけ金縛りなのかわからない。
とにもかくにも、引っ越してからは母は人が違ったように元気になった。
ただ、ちょうど母がお年頃で、更年期の不定愁訴だったのかもしれないけれど。
母は相変わらず時折不思議なものを見るようだけど
見たまんま放っておくのが大物の風情!?
「夜中に目が醒めたら、光が見えて、数字が見えた。へんなの」とか、そういう具合。
私ならすぐに数式宝くじを買いに行くけど、そういうことを母はしない。
結局母が見たその数字は、父の亡くなる日を予告していただけだった。
余談ですが、私はいまだに一度も金縛りに遭った試しがありません。
一方的に動けないのはイヤだよなぁ。イヤイヤ。
3年前のブログで、「スピリチュアル体験アーカイブ」というのをやったんだけど
http://zerohachimaru.cocolog-nifty.com/news/2011/07/post-3998.html
ここで書かせていただいたお世話になった担任のKセンのことで、
おふたりからコメントをいただいてびっくりしました。
どちらも私の見ず知らずの方です。
Kセンのキーワードで、反応する方がいらっしゃることに(だって40年前だし)。
Kセン、すごい。
昨日そのうちのおひとりから連絡がきて
この5月にKセンにお会いになるとのこと。
ハガキを出してお手当をお願いしてみたら、
「生徒が困っているならすぐにやる」と速攻でお返事がきたそうで。
お手当が現役でいらっしゃることにも驚きました。
Kセン、80才。
仙台で某お寺さんの総代を務めていらっしゃると風の噂に聞いていましたが
さらにコメントをくださった方から、
「宗教活動のかたわらで今もお手当を実践されている」と教えていただきました。
40年の間使い続けて、どんなエネルギーになっているんでしょう。すごすぎる。
私もぜひお目にかかり、あのエネルギーに触れてみたい……。
私のエネルギー体験の原点(ついでに伝授くださーい!)。
校了したら仙台行きを密かに考え始める今日この頃です。
いや、待て。その前に……飛ばしてみるか。
ツバメの姿を見たとちらほら聞こえてくる。
ツバメといえば思い出すのが、幼稚園で習った5月の歌。
もう40年以上も前のこと。
ツバメにのって 飛んで飛んであそぼ
五月の大空を 飛んで飛んであそぼ
はい スイスイスイ はい スイスイスイ
──「つばめ」──
そのひと月前の4月。
初めて幼稚園で習った歌は、アネモネの歌だった。キンダーブックだったのかな。
副読本のはじめの見開きに出ていた。
アネモネ駅から汽車ぽっぽ
サクラソウのなか走ってく
ポポポポポポポポ シュー ポポポー
──「花のお国の汽車ぽっぽ」──
残念だった気持ちが鮮明に蘇る。
幼稚園で初めて……1年保育だったから5才でこの歌を習ってこの歌を習ったときのこと。
音階が中途半端な気がしたのと、歌詞が中途半端なのと、短すぎるのと。
「子どもだからってナメとんなよ!」と、思った。
(その頃、ママさんコーラスについていって、「ドナドナ」を初めて聞いて号泣してたし、「みんなの歌」だって好きだし、幼稚園で習った歌が食い足りなかったんだと思う)
それでも5月の「つばめ」はのびやかな感じが好きだったのだが
6月に至っては……
ぶーらんこケムシが1・2・3
藤棚の下で1・2・3
かーぜに吹かれて1・2・3
──「ぶらんこ毛虫」──
_| ̄|○ なんだか切なかったなぁ。
「童謡」にも届かないような、短い短い歌の数々……。完結すればええっちゅうもんやない。
6月で月のお歌の記憶が途絶えるのは、7月からは猛烈なはしかにかかって、
夏休みも始まるしで、3日くらいしか登園できなかったから。
病んでいるとき、枕元の「家庭の医学」を眺めるのが大好きだった。
意味なんてわからなくても、見ているだけで、ワクワク。
鏡の前で乳がんを自己検診する女性とか、
「性」のページの2羽のインコちゃん(イメージカット)とか、
モノクロ写真だったけど、眺めているの、好きだったなぁ。
ツバメにのって、そんな記憶がぶわぶわとあぶり出される季節。
つなぶちようじさんの「気持ちいいもの」メルマガを
毎日楽しみにしている。
読んでくすりと笑ったり、うふふだったり、ときどき泣いたり、考えたり。
そこで紹介された本を求めたりもする。
ちょうど先月の今ごろの「気持ちいいもの」に
迫登茂子先生の話が登場した。
心惹かれ、すぐ密林で著書を検索し、『神のささやき』を発見。
貪るように読んだ。
一度でいいからお目にかかりたいものだと思っていたら
つなぶちさんを通じて、十一日会に参加させていただく機会を得た。
なんだか夢のよう。
一か月しか経っていないのに、もう十年経ったような気もする。不思議な感覚。
迫先生は神々と通信なさる方で、ご自身が交信されたメッセージを紙などに書き付ける。
お目にかかってみると、鈴を転がすように笑い、とても朗らかな方。
そしてたいへんおだやかな印象。
第一印象が大日如来さんなのだが、おいとまするまでその印象は終始変わらなかった。
今日伺った十一日会で迫先生とお話ししているときに、
急に神おろし(←私が勝手にそう呼ばせていただく)が出てたいへん驚いた。
間近で拝見できるなんてなんという偶然。驚いたと同時に深く感動した。
著書を拝読したときに、いろいろな神々がいく柱かで
代わる代わるおでましになられるような印象だった(あくまで私の印象)。
荒ぶる神というか、素戔嗚尊のような気がするときもあれば、
大元の神様をイメージするようなときもあり、
これらのときはおろされる文章が、読んでいるこちらまで泣きそうになるほどキツイ、厳しい。
逆に、とてもおおらかな女性の神々……木花咲耶姫命か市杵島姫命を想像するときもあった。
いや、息長足姫命か倭姫命かもしれないし、
「みなさん」かもしれない(そういうことは本には書いてない。あくまでも個人的感想)。
今日のおろしていただいたのは、おおらかでやさしいほうの神様で、
強く励ましていただけたのでたいへんありがたかった。
神々のメッセージは、紙にペンで書かれていた。
いただくことができたので……もう、神棚に飾ってずっと大切にしようと思います。
迫先生がメッセージをおろされているとき、ふと幼い頃を思い出した。
同じような景色を40年前にも体験している。
……見えない世界のことを私にいろいろ教えてくれた小学校のときの担任、K先生。
K先生もこんなふうに「ご先祖」と交信して、
そのメッセージを、体を大きく動かしながら畳の上に手で文字を書いたりした。
その延長で霊視して、その家の人しかしらないような細々したことを言い当てた。
「お手当」ができる人で、今思えば、エネルギーワークを初めて目にしたのもK先生だった。
そういう現場に連れて行ってもらって、不思議なものを見せていただいた。
不思議なものとのご縁はあのときから始まっていたんだわ、
そして今もずっとつながっているんだわ、と
あらためて気付いたのだった。
K先生、地元で黄檗宗のお寺の氏子総代をされていると風の噂で聞きました。
お元気かしら。
週末、意を決して
押し入れのいちばん奥にしまいこんだ「古すぎて捨てられない箱」を開けたら
1985年のオシャカ様のセットリストが出てきました。
↓ ↓ ↓
ガムテープでべたべた。
もう一枚くっついているセットリスト。
ん? だれだろう。
↓ ↓ ↓
「サルベージじゃない?」 「そうだ! たしかに!!」
ペラさん、かっこよかったなぁ。
ぼんやり思い出しました、オシャカ様とサルベージ、夢の競演でしたわ。
同じ箱に入っていた日記を確かめたらたしかに「1985年の12月8日」。
この日、「オダブツ」が初めておひろめされた日だったみたいです。
と、日記には書いてありました。
たぶん天王寺のチキン・ポテト……かな?
オシャカ様もオシャカも、大好きだった。……だった?
今、デモテープを聴いても、もっすごいいです。 ←現在形
2013年夏の小路寮入寮30年同窓会のオシャカ再結成演奏こちら。
「6月24日の激しい雨」
↓ ↓ ↓
http://www.youtube.com/watch?v=p6YvolOvcdQ
またやらないかな。
「古すぎて捨てられない箱」は草稿関係は整理、処分しました。
セットリストと日記はもう一度箱に入れてなおしました。
夢にはふつうに田頭さんが出てきました。
なんかうれしそうでした。
吉祥寺アトレの週替わりのおいしいもの市「コトイチ」に
また大分の鶏めしがやってきた。
大分でとり天が有名らしいというのを知ったのは
5年前くらいのことだ。それまで認識がなかった。
帰省したときに「とり天って有名なんですか?」とタクシーの運転手さんにきいたら
「そうねー。駅のそばのあの店とかこの店とか、人気みたいねー」
とおっしゃっていた。同様に鶏めしも人気らしい。
もう20年前になるかな、父がまだ存命で北九州の折尾の病院に入院していたとき
大分~折尾を通っていたのだが
母が折尾駅の駅弁「かしわめし」が好きだと言ってよく買っていた。
母が子どもの頃から大好きだったそうだから、
かれこれ75年くらい前にはあったことになる。
……探してみたらあった。
http://tochikuken.co.jp/product/
これこれ。三色で斜めになってるヤツ。
だもんだから、大分で鶏めしといわれても、はじめピンとこなかったんだよな。
そんなことを、お昼に大分の鶏めし食べながら考えていた。
そういえば、子どものころ、ばら寿司のときにおかずはなかった。
ふつうにそういうものだと思っていた。
ご飯におかずが混ざっているんだから、おかずはいらない、って。
かしわめしだって同じだ。
ところが大きくなって、ふつうはおかずもあるものだと知って愕然とした。
……うちが貧しかっただけなのか? おかーさーん!!
大人になって、人と暮らすようになって
ばら寿司にご飯がいるなら、シチューのときにはお味噌汁もいるんだろうと、
気を利かせたつもりが
「シチューにお味噌汁はいらない。汁物がかぶっている」と指摘されて、びっくりの二乗。
子どもの頃、食卓にシチューが出たことはなかったから
知らなかったんだよねぇ。
誕生日より正月より、クリスマスが好き。
どんどん本番に近づいていくワクワク感がいい。
街が楽しげに見えるのが好き。
老若男女がウキウキして見えるのがいい。
あのおうちに来るサンタクロースのことを想像したりして。
私にとってのクリスマスは郷愁のなかにある。
サンタクロースの物語だ(キリスト教信者ではない)。
「眠らないとサンタさんは来ないよ」と親に言われて、しぶしぶ眠った夜。
こたつの中でうとうとしていて、サンタクロースの橇の鈴の音が聞こえた聖夜。
セントニコラウスの物語が大好きでたまらなかった。
いまだにガンコで偏屈な人を見るとちょっぴり愛おしく感じるのは
私の中にセントニコラウスの物語が息づいているせいだ。
それにしても、
セントニコラウスの物語は
スサノオノミコトの蘇民将来の物語に少し似ている……と思うのは私だけか? ……まあいい。
幼い頃は徹頭徹尾、サンタクロースを信じていた。疑いようがなかった。
私にとっては1年に一度かならず触れる、縁の深い人だった。お顔は想像でしか知らないけれど。
幼稚園に入る少し前、引っ越した先の近所の姉弟に(2つか3つ上なだけなんだけど)
「サンタクロースなんているわけがないでしょ、マリちゃん、アホちゃう?」と言われて
泣いて家に帰ったことがある。
「お母さん、サンタクロースはいるよねぇ?」と泣きながら言ったら、
母がすたすた表に出て行って、近所の子どもたちを集めて新聞を読んで聞かせた。
「ほらごらん、オーストラリアにサンタクロースが来たって、新聞に書いてあるでしょう?
サンタさんは本当にいるのよ。新聞に出るものね。会いたいね」
子どもたちは目を丸くして、写真入りのその記事を眺めていた。
ツリーを買いに行ったのは長崎屋だったと思う。
外国の子どものパッケージで、それは今まで見たことのないハイカラなものだった。
折りたたまれたもみの木を拡げる。枝の先に赤い実がついていた。
キラキラのボールを、何個落として割っただろう(よく割れた)。
買ったその日にすでに割ったように思う。
サンタさんのへんてこ人形は赤と白があって、少々不気味でもあった。
そんなサンタ人形とか橇とかを吊して、仕上げに綿をのせてできあがり。
脱脂綿とは少し違う、アクリルのきれいな綿。
ツリーの上に置くサンタさんへの手紙を書く。
「お元気ですか」に始まって「あれが欲しい」と書く。
何日か経つと、サンタさんがお返事をくれる。
「いい子にしていなさい」と書いてある。毎年そんなふうだった。
サンタクロースの正体を知ったのは、小学一年生だった。
「ほら、今、鈴の音が聞こえたよ!」と母に言われて喜々としてベランダに出てみたら
大きな紙袋が下がっていた。
「今年も来てくれた! やった、やったー!! サンタさん、寒いのにありがとう!!」と叫ぶ。
部屋に入って紙袋の中をあらためると、大きなパンダのぬいぐるみが入っていて
またまた狂喜する。うれしかったなぁ。
でも翌日、紙袋の中をもう一度のぞいたら
中に父の名前の領収書が入っていたんだ。あれ、領収書だったかな?
とにかく「中村泉一様」と書いてある紙切れを発見した。
その紙切れは、子どもにからくりを想像させるに充分だった。
サンタさんはいないとわかっても、
「きよしこの夜」やら「ジングルベル」をエレクトーンで家族に披露したり
毎年なんだか楽しかった。
福引きで母が当ててきたミニツリーも好きだった。
どこかからいただいたという、キャンドルでくるくる回る天使たちもかわいかった。
「クリスマスだし、たまにはキャンドルで食事をするのもステキよね」と母と盛り上がったのはいいが
「陰気くさい。灯りをつけないか!」と父にどやされて、泣きながら食べたクリスマスディナーとか
泣いていたことまで、今はもう懐かしくて懐かしくて。
高校生のころは、夕方下宿先に挨拶して帰省……そのまま帰省するわけもなく、遊びまわり
朝までこごえながら厳寒の公園で過ごしたこと。
イブの夜の街の銭湯。大人のため息。子どもの笑顔。
新聞紙一枚のぬくもりを初めて知ったクリスマス。
そうだな。たくさんの愛を思い出すから、好きなのかしら、クリスマス。
今夜は、フィル・スペクターのクリスマスアルバムと
ポーグスの「ニューヨークの夢」を聴いてゴキゲン。
明日は街を歩いておうちに帰ってきたら、ELOの「モーメント・イン・パラダイス」聴きたいです。
メリークリスマス。みなさま、素敵なクリスマスを。
You Tubeで「モーメント・イン・パラダイス」発見。 あるもんですね。
「まず自分自信が幸せであれ 迷うな」って。
母は少しカンの強い人で、私が幼いときから
やれ「あのとき火の玉が…」「虫の知らせが…」なんて話を普通にする人だ。
その母が、昨日書いた桜の木の家に住んでいるとき、ずっと具合が悪かった。
三年間で二回手術をした。
もとより更年期だったこともあると思う。
あるときニコニコして手招きするので「なあに?」ときいたら、
「マリは弟か妹、欲しくなあい?」と訊かれた。……おかあさん、残念!
その家に暮らしている間、じつは母の具合がずっと悪かったのだが、
次の家の舞鶴(京都府)に引っ越したらケロッと治った。
「おかあさん、すっかり元気になってよかったね」と言ったら、
「実はね、マリが恐がるから話せなかったことがある」と、母。
「あの家はなんだか少し、変だったよ。
とくにマリの部屋。
お母さんはあそこに昼寝で五分横たわっただけでも、金縛りにあってたの。
百発百中だよ。恐ろしかった」
…どうりであまり来なかったよな。私が部屋を変えたら来たくせに。
少し背筋が寒くなった。
ちなみに、私はそこで毎晩寝ていたにも関わらず、金縛りなんてあったためしがない。
家になにかあるときは、長い時間家にいる主婦に障りがいくというけれど…。
「大きな木が覆い被さっているのは家相もよくないと言うし、木の精が怒ってたのかな」なんてことも言っていた。
もちろん断じてそれはない。濡れ衣もいいところ。
木が家を重いと感じていたなら、もっと木に近い部屋で何かが起ころうもんだし。
桜はいつだって私に親切だったし。
もっと別の理由があったはずだ(練兵場の跡地らしかったし)。
確かに多少陰気な感じのする家ではあった。
まあ、以来おかげさまで母はとても元気で、
八十才にして西に東に「人様のお役に立てるなら」と言いながら駆け回っている。
私はいまだに金縛りにあったためしがない。
おそらく、これからもね。
「もう! びっくりさせないで!!」と、怒鳴ることはある。
小学校5年生のときに引っ越していった小倉の家に、
とても大きな桜の木がありました。
思えば私の桜が好きなのは、
あの木への特別な気持ちから始まったのかもしれません。
家に覆い被さるくらい繁っていたソメイヨシノ。
枝からブランコをさげることができたくらいだから、
当時で樹齢40年くらいあったのだと思います。
その木が大好きでした。
おねだりしてブランコをつけてもらったものの、
実際にはほとんど使いませんでした。木が気の毒で。
夏になるとものすごい蝉時雨で
夕方になると地中からようやく抜け出して、幼虫から成虫になるセミがいくつもおりました。
声はすれどもセミを探せない私に、
「ほら」「ほら」「あそこにも」と、父が指差すほうをみると
いとも簡単にセミが見つかるのには、子ども心におどろきでした。
六年生の夏休みが終わる8月31日の晩、
もう二度とこんなにすてきな夏は来ないことが悲しくて
布団のなかでギャン泣き、もとい、さめざめと泣きました。
夏のひとときのキラキラが、それはやさしく美しく、
その輝きから抜け出して他人のように秋を歩きだすのが、たまらなく悲しかった。
そして自分は大きくなっていく。
この夏には二度と会えないことがせつなくてせつなくて。
翌朝、目をはらして始業式に行きました。
学校の友達との楽しい日々に、せつなさはちぎれ飛んでいきました。
そんな女の子を、桜はどんな思いで見守ってくれていたのかしらと思います。
あのとき、木の精がいるのを静かに感じていました。
大きくなって、かつて住んでいたその家を見に行ったら、
伐られてしまって、桜はもうそこにはいませんでした。
でも、きっとずっと覚えてるな。
せつなかったこと。
桜の精と暮らした日々の輝き。
子ども時分の思い出話です。
小学6年生の学級会で、どうしたら自習の時間に静かになるかという議題になりました。
月並みな意見が色々出たあとで、
「まあ、やってもあんまり効果ないよね強制力ないし…今までも何度も話したもんね」
となったところで、誰かが言ったこと。
「ねー、みんなで大騒ぎになっとうときに、一瞬静かになるやん。
わかるやん?
そしたら、ぜったいしゃべらんことにせん?」
目からうろこの意見だったが、ちょっと刺激的でおもしろそう。
「したことないけ、やってみよやー」ということになった。
で、やってみた。
いつもの通り、大騒ぎの自習中に、ふとそのシーンとした時間がやって来て。
…大成功だったんだよな。
「きた!!」 と思った瞬間に、笑い出しそうだったけど、みんなこらえて静かにして、チャイムが鳴るまでやり過ごせました。
ふと思い出した、子どもの頃の発想の転換成功例。
今思い出したってことはよ。
なにかに活用できるんじゃないかしらん?
1月6日は父の命日。今年で19回忌になる。早いものだ。
幸い日曜日だし、父の好物を用意すべく、コーヒーをいれ、イモのてんぷらを作った。
夜にはエビフライを作って仏壇に供えよう。
母の料理の腕前にはとてもかなわないけれど、まあいい。
苦笑いしながら、悪い気はせず食べてくれるだろう、父。
朝からあれこれ亡き父に思いを馳せる。
厳しい人だったので、子どもの頃はおっかなくて、そばにいると緊張し、たいへん苦手だった。
話をしたのはほんの少しだし、そばにいたことも少ないので、まあ、父は私には謎だらけの人だ。
最晩年にようやく少しだけ話ができた。話ができたことを感謝している。
……感謝か。
命日だし、まとめてみよう。父に感謝すること、3つ。
1 引越ししまくってくれたこと
父は転勤族だったので、幼いころから私は引越に次ぐ引越で育ってきた。
小学校の6年間だけで、4つの学校の間で5回転校している。6年で6軒の家に住んだ。
自分にとってそれがふつうだったので、今も環境の変化に対して一切の恐怖も嫌悪もない。
流れの中で生きていくのを感じることができるのもおかげさまだ。
2 味方してくれたこと
京都の舞鶴に転校したら、転校先の中学校で担任とそりが合わなかった。
ガマンできないと思ったある土曜日、
「ここにはいたくない。祖母のいる熊本に引っ越して祖母の元で下宿して暮らしたい」と父に申し出た(住んでいた小倉に戻りたかったが、戻るのもかっこわるくてその選択肢もなかった。私は祖母が非常に苦手だったが、考えた末、転校を親が認めるにはこれしかなかろうと思ったのだ)。
父の言葉は意外だった。
「わかった。今の中学やめて熊本に行け。マリの好きなようにやれ」。言われてどんなにうれしかっただろう。
兄までいっしょに「やめろやめろ、そんな学校やめてまえ」と言う。
晴れて、そのまま学校に行かないつもりだったんだが、
「やめてもいいから、とにかく月曜だけは学校にいってごらん」と母が泣いて言うのに負けて
月曜日だけ行くことにしたら……そのまま居着いちゃった。
制度なんて無視して、あのとき味方してくれてありがとう。
信頼を寄せてくれる人がいるのと肌で感じて、おかげで私は圧倒的に強くやさしい気持ちでいられる。今も。
件の担任とは、これから3か月後に熾烈な闘いを勃発、のちたいへん仲良くなった。
3 書くことを後押ししてくれたこと
大学生も卒業近くになって就職のシーズン。どうしても父を越えねばならないと思っていた。
当時、きちんと詩を書きたい、ものを書いて暮らしたかったので、ふつうに就職するという選択肢は自分になかった。
あくまで書くのを優先する暮らしにしたかったのだ。
帰省したときに父に切り出した。
「お父さん、私は生産的なことはしないで生きていきたいと思います。
ものを書いて生きていきたいのです。就職はせず、アルバイトなどで食いつないでいきます」。
父には厳しく叱られたのだが、まったく想定外だった。
「お前、書くことが生産的じゃないってなんなんだ!? 書くことはとても、この上なく生産的なんだよ! それをお前がわからないでどうするんだ!? プライドを持て!」
と、父。
想定外の言葉に「ええと、そんなつもりじゃないんです、生産的じゃないなんて言ってごめんなさい」としどろもどろで謝ったのを覚えている。
とにかく私がこの先どう生きるかについては、「好きなようにやってみろ」だった。
おかげでものを書くということについて、軸ができたように思う。
最晩年の父に「若い頃は文士になりたかった」と聞いた。もしかするとなにかを私に重ねたのかもしれない。
いろいろたくさんくれてありがとう。
かわす言葉は少なくても、ちゃんとたくさんいただきました。
おかげさまで力にかえて、楽しく生きています。
そんなことを思いながら過ごす19回忌。
お父さん、ありがとうね。
ものにはすべてたましいがある、これは幼い頃の私の知る世界の根本だった。
比喩ではなくて、ごくふつうに。母がそんなふうに育てた。
花や木や石や草、犬、猫、鳥をはじめ、テーブルも茶碗もお箸も、もちろん大事な人形たちも、
自分のまわりにあるものたちが、私とふれあいながら喜んでくれているのをよく理解していた。
3才くらいの頃は、好んで母に「今、このお膳はなんて言ってるの?」と尋ねまくっていた。
もちろん答えはわかっている。
でも母を通して、母の口から事実確認したかったのだ(←なんか第三者的だし、声色を変えて母が代弁してくれるのも好きだった)。
「まりちゃんにかわいがってもらって、うれしいって言ってるよ」と聞くのがどんなにうれしかったか。
そんなわけで、あらゆるものが私を歓迎してくれる……そんな素晴らしく平和な、満ち足りた世界に住んでいた。
こちらが愛を注げば、たしかに愛で満たされるのだ。
人形がとても好きだったが、人が眠った夜中には、人形たちだけで遊んだり、人のうわさ話をすることもちゃんと知っていた。
ボールにだってもちろんたましいがある。
あるとき、私のゴムマリを、八つ年の離れた兄が友だちと遊ぶのに持って行ってしまったことがあった。
帰ってきたとき、無惨にパンクし凹んでいるゴムマリを見て、愕然とした。
しくしく泣きだした私は、ゴムマリがケガをしたと思って、あろうことか座布団とタオルでゴムマリ用の布団をあつらえてマリを寝かせ
布団をかけて「頭」を冷やしてあげた。自分が病気になったときにそうしてもらうように。
……ゴムマリの「頭」って、どこよ(それを見た兄の気分を今想像すると申し訳なさでいっぱい。にいちゃん、ごめんよ)。
幼稚園に上がる頃、どうやら友だちたちは、この世界が理解できないことを肌で感じるようになる。
物への対応が自分とはまったく違って、みんなただ「物」としか扱わない。
ぞんざいに扱われる友だちの人形のことを「可哀想だ!」と抗議したときに、「バカじゃないの?」と言われたのはその頃だ。
もしかしてみんなわからないのか!? わかるのはわたしだけなの!? と衝撃を受けた。
以来そういう話題には他人には話さない、母と話すとき以外は一切口にしないようにした。
もちろん大人になっても口をつぐんだまま。
ただ、乱暴に扱われる物を見るのは切なくて……
「フランダースの犬」の物語のはじめに、おじさんに虐待されているパトラッシュを見ているネロの気持ちになる。
聞こえないのかな? わからないのかな? と思う。いや、おかしいのはこちらか?
食器を洗うとき、置くとき、片付けるとき、自動改札機、トイレ、パソコン、ファックス、コピー……。
事務所でも、コピー機に紙が詰まっているのを、
コピー機の悪口を言ったりバンバン叩いているのを見ると、胸が痛くなる。
本人(←コピー)に人の言葉が聞こえないと思っているのか?
「コピーちゃんのせいじゃないよ!」と、まあ、チキンなので言いませんけど、ホントはそんな気持ち。
気持ちは、人よりもコピーちゃんの味方になっている(だって話せないもの!)。
あまりに見かねるとそばにいって、人目に触れないようにコピー機を撫で撫でする。
「キミは悪くないよ。ただ人がイライラするだけなの。だから、なにがまちがってるか教えて」となだめていると、
小さな付箋がコピー機の端っこに詰まっているのをふと発見できたりする。
「ありがとう。きつかったね。もう大丈夫。いつものように活躍してね」
こちらがチューニングを合わせると、気持ちが通うとき(周波数?)ってあるのだ。
気のせいといえば「完全に気のせい」と、言えないことはないかもしれない。
ところが、去年(2012年)エネルギーの世界のことを取材させていただいた折、ものすごくうれしかったことがある。
エネルギー遣いのその方は、パソコンのメンテナンスの方で
具合の悪いパソコの修理に行くと、まずパソコンに謝るところから始めることが多いとおっしゃる。
(謝る=たぶん、口に出すことなく、「ごめんね」の気持ちを送るということ)
「持ち主の罵詈雑言をしこたま浴びて、マイナスエネルギーいっぱいになってしまっているものがことのほか多い」そうで。
ものすごくよくわかる! よかったー、私が変人なわけじゃないよ! と、はじめて話がわかる人がいて、小さくガッツポーズをした。
人から浮くのが恐くて、私が封印していたことだった。
また別のエネルギー遣いの方は、無機物にもエネルギーが入る。物質の膜のその下……みたいなことをおっしゃっていた。
難しいことはわからないし、わたし自身はエネルギーを可視化できるわけでもない(そうなりたいとは強く思うので森田健さんのFBを拝見してキャベツを食べて修行中)。
ただ、自分の感性を妄想ではなかったと感じることができて、とてもうれしかった。はじめてだった。
日々、使う器ともしょっちゅう話をするし、使うと喜んでくれるし、
お茶と話をするとおいしくなってくれるし、
そうそう、家とも気持ちを通わせ合っているつもりになっている。
今の家に引っ越してきたとき、この家の弱点は階段だと感じたので、毎朝必ず階段と廊下、ついでに2つあるWCと玄関を掃除する。
へんな言い方だけど、「背中の痒いところ」を掻いてあげる感じに似ているのだ。
というのも、この家を借りようと下見にきたとき、素敵な場所だったので家に話しかけたのだ。
「ここに住まわしてくれるなら、きっとあなたをとても幸せにするよ、わたしたち」。
で、無事住まわしてもらえることになったので、家とのその約束を毎日守っている。
痒いところをかいてあげることと(=好きという気持ちを寄せること)、住まわせてもらう私たちが笑顔でいることが、家にとってのしあわせでもある。
すると、家にとっての本領発揮ができるわけ。
どうということはなく、気持ちを寄せればすぐにわかる。
「話ができる」というよりも、周波数を合わせて、同調する、共感するというのに、近いと思う。
気のせいといわれればそれまでだし、本当はだれだってできることだ。
だから、「水の波動が……」という話を聞いたときに、「えっ? マジで???」と、水に気持ちを寄せてみると
「やっと気づいたよ! 待ってたよ!!」的に水が大喜びしてくれたのが手に取るようにわかった。
世界を見回したとき、気持ちを寄せるとそれらはすべて親密に振る舞ってくれるので
さいわいなことに「宇宙に歓迎される」とか「世界に歓迎される」感じがふつうによくわかる。
感じることに集中したら、だれでもきっとよくわかるよ。考えることではない。
いろいろなもののいのちが私たちを支えてくれている。気づけば世界の豊かな色合いが見えると思う。
交歓できるってすてきだし、ものすごくたのしい。
ためしにノートパソコンに「私を好き?」と聞くとケレン味なく「すごく好き!」と言ってくれる。
「ありがとう」と言ってなでなでする。そんな感じ。
*この文章にはお芝居の結末も含まれるので、観る予定のある方は、観てから読んでください。
2013年は劇団結成満30年周年記念だそうです。
南河内万歳一座は1980年に大阪芸大の在学中に旗揚げ公演。
1年の休団を経て、新作「夕陽ヶ丘まぼろし営業所」をひっさげて、復活しました。
「夕陽ヶ丘まぼろし営業所」は、まだ観ていない人にはぜひおすすめしたい作品です。
万歳史上、世紀に残る名作で、観るべしの作品。「唇に聴いてみる」を超えた!と思いました。
「唇に聴いてみる」のアンサーソングならぬアンサー芝居じゃないでしょうか。
夕陽のシーン、群衆劇、アングラ演劇を彷彿とする台詞まわし、肉体派、シンプルで最強の舞台装置、泣ける音楽……どこを斬っても金太郎飴さながらの、「ザ・万歳」のお芝居です。
各アイテムが複雑に絡み合いながら展開します。
そこに内藤さんの描く物語が合体して織り成す模様が素晴らしく、その完成ぶりに、
「唇を超えた!」と思ったのです。観ながら泣けてくるところも、“唇超え”でした。
「唇」にわたしがこだわるのは、自分の構成成分の五分の一が
「唇に聴いてみる」なんじゃないかと思うほど好きな作品だからです。とてもせつない作品でした(86年の改訂版をオレンジルームで、89年「唇に聴いてみるの作り方」をOMSで観ました。で、86年から万歳に傾倒したというわけです)。
胸の中でちろちろと燃え続けているなにかが、そのまま呼応してくるようなそんな感じ。
「唇」を観た後にせつなくてたまらなくて泣いたのなら(実際立ち上がれないほど号泣した、当時)
今度の「夕陽ヶ丘」は、うれしくてたまらず泣くのです。
あの日の少年は、せつなさを抱えたまま大人になりました。
ときにせつなさにうちひしがれることもありましたが、しかしなにひとつ捨てることなく、あきらめることもなく、とにかく歩き続けたのです。
あれから何年過ぎたでしょう。見た目は年をとりましたが、心は少年のまま。
そのみずみずしさをなにひとつそこなうことなく、静かに強くなっていました。
今少年は、すべての歩みをふりかえって、まあこんなもんだし、悪くないと笑うことができます。
いったん笑った後で、…おやまあ、彼はまた歩きはじめましたよ。そんな印象です。
年を重ねること、生きること、かならずしも思った通りの年齢の重ね方でなかったにしろ
そもそも思った通りってなんだよ、思ったイメージ、そんなもんホントにあったっけ?
……それを、夏を待つイメージと重ねながら、物語は進んでいきます。
ふと気がつくと思いもかけないところを歩いていて、そのときようやく初めて「ここどこ?」に気づく。
「ここ」に違和感を持つものの、そもそも行きたい夏はなんだったのか、ほんとうはイメージすらできていなかった事実をつきつけながらも、
歩くしかないじゃない、今ありき! では、まいりましょう!! みたいにたたみかけてきます。
たとえ見た目の醜さをはらんだとしても、年齢を重ねる事象に対して、全肯定。
「生きる以上は諦めるな、今からでも、描く夢があるならば、一歩一歩つみかさねるのだ」
と、スネに傷持つ、「カラスの姐さん」を通して描き出します。
カラスの姐さんの終盤「だけど……手伝いたかったね!」の台詞まわし、笑いにかえてあったけども
あれは「唇」の運動会の玉入れで玉を数えたあとの「勝ちたかったね!」のパロディでしょう。
一方で、飛行機の機内の模様を格差社会にたとえたり、目に見えないものを怖がる集団を描き出したり、
センチメンタルが横糸なら、縦糸はシュールな社会批判(分析?)、これも、内藤さんのお芝居の真髄ともいえる見事な構成でした。
劇場の外界に広がる「今、ここにある問題」について的確に描かれていたように思います。
縦糸と横糸のバランスがよくて、それがとても心地よくて。ぴたっとキマった感じがしました。
南河内万歳一座、そして内藤裕敬さんの「第二章、はじまり、はじまり~」と、のろしがあがったようでした。
内藤さんの強さとやさしさに、勇気づけられます。確かな今があるから、余計に。
こんなに素敵な先達がいるなら、わたしも元気に歩いていけます! そんな感じでうれしかった。
ところでうちに帰ってから、ヒロイン不在に気がつきました。
いつの間に、せつなさの質が変わっているのかもしれませんね。そんなお年頃なのかも。
南河内万歳一座 http://banzai-ichiza.com/
*余談*
芸大出身者として、自分もそうだし、周りをみていても思うこと。
自分から発露するものを作る、作り続けていくのは、ときにものすごくキツイこともあります。
社会的な風当たりもあれば、その作業自体がキツイことでもあるし、
でも、それをしなければ、私たちは生きられない。
それはただの思いこみかもしれなくても、
「これがないと生きられない」と思いこめちゃう自分たちのことはキライではありません。
これ幸いと足を洗った人もいれば、違う道を歩んでしあわせを手にした人もいる。
続けたくても続けられなかった人もいるし、運良く続けられた人もいる。
甲乙つけられるものではない。ただ、「今、ここ」があるだけ。
それにしても30年も続けていられるのは、とてもしあわせなことです、ありがとう
と思うのでした。
万歳にも自分にも、続けている周りの人たちみんなにいえることじゃないのかな。
ホテルカリフォルニアが鳴り響いてる。
「いつでもチェックアウトはできるが、ここから逃げ出すことなどできない」
* * * * * * *
芸大時代の友人、田頭潤さんの訃報が届いたのは12月のはじめだった。
お茶の水の坂道で、「ウソだ」と思いながら弟さんと電話して涙が止まらなかった。
学生時代、彼をよく知る人たちに連絡をまわした。
とはいっても、学校に行く人ではなし。すべて彼のいた小路寮界隈の人たちだった。
彼と最後に会ったのは8年前のわたしたちの結婚式。喜んでくれたなぁ。
ほとんどの人はそれ以来彼と会ってはいなかったから
いきなり死んだと言われてもキツネにつままれたようで、全然その気がしない。
もちろんわたしもまだどこか信じられないでいた。
身内だけの小さな小さな葬儀は終わったと聞いても
わたしたちはどこか宙ぶらりんのまんまだったので、追悼会をしようということになった。
* * * * * *
大阪芸大というところは、大阪の片田舎、南河内にある。
小路寮はさらにそれよりも山奥に入ったところにある、大阪のみちのくみたいなところ。
ある意味隔離された場所だった。
わたしが初めて小路寮に行ったのは、まだ高校生のころだった。
仲のいいひとつ上の先輩が芸大に進学して小路寮にいたものだから、高3の5月に遊びに行ったのだ。
「絵が描きたいと思って芸大に来たけれど、それよりも大事だと思うものをすでに見つけてしまいました」という、入学1週間してからの先輩からの手紙に「???」がいっぱい。
なにやらすごくおもしろそうなニオイがする小路寮ってどんな場所なんだろうと思った。
そのときに初めて会ったのが、田頭さん、まーちゃん、健さん(岡本さんとはこのあとになる)、倉部さんたちだった(たくさんいて10人くらいになったっけ)。
夜になると、バンド「サウスサイドシャッフル」の練習からちかちゃん(先輩)と健さん(ダンナ)が帰ってきた。
その夜は寮から発信していた「へんな顔放送」のオンエアで(海賊放送だ)、
田頭さんたちがえらく盛り上がっていた。
わけがわからないまま、わたしはすっかり場の熱に冒されてしまっていた。
翌日は、どうしてそういう運びになるのか、田頭さんや倉部さんが天王寺動物園に連れて行ってくれて(もともと知り合いのはずのちかちゃんは不在)、
オーバーオールの田頭さんが必死に女子高生の相手をしてくれたのを憶えている。
「ぜったい芸大に行こう」と心に決めたのはこのときで、だから受験も芸大以外は受けなかった。
芸大じゃないと意味がない。この人たちがいるところがいい。そう思ったのだ。
そして翌年わたしは、晴れて芸大生になった。
奇しくも今日「芸大の学生寮は数あるけれど、小路寮のおもしろいところは
暮らすところなんて二の次という奴ばかりが集まっていたところ」と、健さんが言ったけれど、わたしもそう思う。
これから始まる学校生活を考えれば、普通はもっと学校のそばの立地のいい場所を住み処に選ぶものなのに、ギリギリまでやらないから、あんな僻地に住むことになる。
遠いし面倒だから(バスだって30分に1本だ)みんな学校には行かない。
だけど、ものを作る・表現することへのこだわりはピカ一で、
まるで子どものように、描いて書いて読んで撮って観て聴いて演奏して歌っていた人たちだった。
時折はわたしの部屋で(なぜか一時期、寮並みに人が集まり、酒を飲んだり玉子かけご飯を食べたりしていた)、
朝まで音楽の話が続き、映画の話が続き、絵や漫画、小説の話が続いた。
果てのない芸術論と馬鹿話。
ビートルズのすごさと、ウルトラセブンの映像の素晴らしさ、ウォーホールの仕事、『悪徳の栄え』の所感、仲間の悪口は、すべて並列に語られた。
わたしは口をはさむ余地もなく、ただみんなの話をずっと聴いているだけだったけど、
聴いているのがとにかく心地よかった。眠くなるヒマもなかったくらい。
* * * * * * * *
さて、この1月9日、大阪で追悼会をした。
追悼会をやるのに遺影もない。
と思っていたら、ちかちゃんが等身大(で上半身)の田頭さんの漫画を作ってくれた。
「いらっしゃい」と田頭さんに迎えられたとき、笑いが止まらなくなった。
その情けない顔の(←似顔)田頭さんを連れてみんなで小路寮に行ったら
寮のあった場所はできたてほやほやの駐車場になっていて、一同呆然とするしかないというオマケまでついた。
「ミスター小路が死んだら魔窟も消えるのか」と誰かが言った。
追悼会は、小路寮近くの温泉で。
故人の馬鹿話をまくしたてながら思いきり笑った。
献杯するとき、それからたまに故人を褒めるとき、どんよりした空から突然似顔に向けて光が差し込んでくるのを、不思議な気持ちで見守った。
「きてるな」「うん、きてる」
と言いながら、当時みんなで描いた(もちろん田頭さんはヘビーライター)漫画に大笑いしながら、また田頭さんの悪口を言う。
あの人たちは愛情の表現がゆがんでいて、かなり照れ屋だから、
悪口を言うのが「大好き!」ってことになる。
誰ひとり「いい奴だった」なんていう人はいなかった。
「あいつ、まだ、迷てるよな。あっちに行けてないよな」
「うん、迷ってる。バカだしな」
「あいつがいちばん、自分が死んだ実感がないんちがうか」
「安心しろ、成仏するんだ、田頭」
みんな感じていることは同じだったみたいでおかしかった。
田頭さん。漫画で身を立てたいと、必死だったんだ。
「いつかみんなそれぞれの世界で有名になってさ、表舞台でまた会うんだ」。
若い頃、そんなふうによく言ってた。
晴れ舞台に立つまでは情けない姿を人に見せたくはない……そのプライドがアダになったんじゃないか。
死ぬギリギリまで、あの夢は消えてなかったと思う。
自爆でもなんでも、「え? マジ死ぬの、オレ?」って、その瞬間に思ったに違いないんだ。
二次会は、今も喜志(芸大のある近鉄南大阪線の駅)に住むちかちゃんの部屋で。
田頭さんと岡本さんが映像学科の課題で撮った8ミリ『童貞パパ』を、二十数年ぶりにみんなで鑑賞した。
田頭さん主演・脚本。健さんとわたしが準主役で出演。監督は岡本さん。
荒削りだけどやっぱりおもしろい。
やっぱりセンスは確かだな、田頭さん。若き日の田頭さんの姿がちょっとせつなかった。
それにしても『童貞パパ』って、最高のネーミング!
14日は高円寺で、東京チームのミニミニ追悼会。ここでも悪口を言い倒した。
みんなで田頭さんの悪口を言うことが、笑うことが、いちばんの供養になりそうな気がする。
そしてこれを上から見ている田頭さん、
みんなに言いたいだけ言われて、ものすごく悔しがっていることだろう。
もしも声があったら二百倍にして仕返ししてくることだろうがかなわない。
それでいて、とても会いたかった人たちがこうして集っているのが、ホントはとってもうれしいんでしょ?
みんな、それが痛いほどわかっている。たぶん。
* * * * * * *
ミクシィの「小路寮」コミュは、田頭さんの死をきっかけに人が集まりはじめた。
追悼トピックスへの書き込みも100を超える勢いだ。
「なんだよ、お前たち、小さくまとまってんじゃねーよ」という彼の強がりが聞こえてきそう。
ほんとうはこのトピックスを永遠に終わらせたくないような、語り継ぐことで彼の生きた証しを永遠にみんなでリレーしたいとも思うけど
そんなことは無理なのかな。夢なのかもしれない。
でもみんな絶対に、「タトゥー」(=田頭)を忘れない。
11月30日。
ジョージ・ハリスンと同じ命日になった田頭潤さん(享年45歳)は1月17日で「四十九日」を迎える。
そしたら本当にしばらくお別れなのかと思ってせつなくなる。
このひと月半、ともに濃密な時間を過ごしたと思う。
いつも近くに彼の気配を感じることができたのは幸いで、
だから余計、四十九日を寂しく思う。
遺志はみんなで継いでいきましょう。わたしも、なにもあきらめません。
ちょっと! 死んだ人は、生きてる人をちゃんと応援しなさいよ。
そしたらきっと生きる人は、あなたの分まで夢をかなえようとするからさ。お願いね。
そしていつかわたしが死ぬときは、ジェントルマンで迎えにきてください。
あのとき動物園でぎこちなくエスコートしてくれたみたいに。
1986年の夏のこと。
マガジンハウスの詩の雑誌『鳩よ!』に詩を掲載していただいた。
部屋に遊びにきていた悪友らが、
活字になった同志(わたしね)の作品をそれは喜んでくれて、
思い思いに絵を描いた。いや、いつの間にか半ば競い合うように描いていたなぁ。
二十代のはじめ、みんな世に出て行きたくてたまらない時期だった。
仲間の、そして自分の作品や才能をみんな信じていたと思う。
「冬の終わりに」のほうは以前も紹介した大神守彦くんの作品。
この絵は大阪芸大の文藝学科の原稿用紙の裏に描いてある。
チャラ描きとは思えない点描。
するすると描き始めたのをよく憶えている。
一筆箋のほうは、田頭潤さんの落書き。
自分で描いて、自分で「田頭様」とサインするのが彼らしい。
この人はいつも真っ黒い似顔絵、ひどい漫画ばかり描いていて、
ダークなことこのうえないのに、それがめちゃくちゃおもしろくていつも大笑いした。
人の悪口を言わせると天下一品だった。
憎まれっ子世にはばかるだから、絶対だれより長生きすると思っていたのに
昨日訃報が届いた。
仲間内でまわしていたへんてこ漫画『サン書店』に、田頭さんは30年後の同窓会を描いていた。
いちばん仲がいい人(いちばん悪口ばかり言ってた)のことは遺影にして、
自分のことはつつがなく描いていたくせに。まさかこんなにあっけなく逝っちゃうとは。
昨夜は東京の仲間内でこじんまり集まり、
彼の悪口をさんざ言いつつ、大笑いして、泣きながら飲んでいた。
口が裂けても「いい人だった」なんてだれも言わない。
でもみんな彼のことを、大好きで大好きでたまらなかったんだ。
クモの糸、1万本束ねてバイオリンの弦 「柔らかい音」
細くて強いクモの糸を使ってバイオリンの弦をつくることに奈良県立医科大の大崎茂芳教授(生体高分子学)が成功 /2010年9月11日(土) asahi.com
我が家には小さな兵隊グモが跋扈している。
見つけても放置するから、ときどき視界をぴょんぴょんと、我が物顔に跳ねていくのがわかる。
新居に家移りして初めての夏。今年はゴキが少ないのは、キミたちのおかげなのか???
「クモの糸」と言われると、瞬間に「カンダタ!」と応えるな。
あのお話は子どもにとっては非常に衝撃で、教訓以上のものがあった。
最後の、お釈迦様が悲しそうな顔をする描写がなんともいえなくて。
あれは4歳か5歳のときに、母から読んでもらった「蜘蛛の糸」だ。
いまだに蓮の花を見ると、極楽浄土の、朝お釈迦様がお散歩している蓮池を想像するし、
地獄の恐ろしさもあれで知ったのだ(まるでこの目でみてきたかのごとくに)。
だから、「クモの糸」とくれば反射的に「カンダタ」なのだ。
「へんな名前!」と思ったのを昨日のことのように覚えている。あれから40年経つ。
わたしのなかには完全にすり込まれている“おはなし”が、えらくたくさんあるのだ。
読み聞かせ、おそるべし。
第1章 夏はまだまだ終わらない! 「高円寺阿波おどり」始まる 2010年8月29日
8月最後の週末となった28日、杉並区のJR高円寺駅周辺の商店街で、恒例の「高円寺阿波おどり」…
・1957年に「高円寺ばかおどり」スタート、今回で54回目。
・NPO法人「東京高円寺阿波おどり振興協会」 29日までの2日間で、約1万2千人の踊り手と100万人以上の観客が集まる見通し
いまでは本場・徳島と肩を並べるほどの大規模イベントに。 /2010年8月29日(日)asahi.com
5歳の夏、’70年の大阪万博のお祭り広場で初めて見て以来、阿波踊りが大好きだ。
幼心にあの阿波踊りの群衆は強烈で、なにか駆り立てられるものがあった。
「えらやっちゃ、えらやっちゃ、よいよいよいよい、
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ、そんそん……」
お腹に響く音、群衆、熱狂。子どもを夢中にするのに十分だったと思う。
そういえば高校生の頃、徳島の阿波踊りも見に行った。
そんなだから、「高円寺で阿波踊り」と聞いたときには、最初ちょっとなめていた。
で、初めて見たときには度肝を抜かれた。度肝を抜かれてすぐに虜になった。
あの、圧倒的な熱狂と、音と、踊りと、しかも踊り手たちの笑顔の洪水。躍動感。
徳島の「同じ阿呆なら……」の歌はなく、かわりにどの連も
「一かけ二かけ三かけて、しかけた踊りはやめられない
五かけ六かけ七かけて、やっぱり踊りは阿波踊り」を歌う(最後は連によって違うみたい)。
全国から集まる連(踊りのグループ)にもいろいろあって、楽器の構成も、人員構成もさまざま。
なかでも高円寺の公認連は、やっぱり圧倒的な力強さがあって、しびれる。
気がついたらこちらも手を打ち鳴らしながら、その場で飛び跳ねている次第。
踊っている人たちのかっこいいこと!
女性は色っぽいし、男衆はたまらず粋だし、お囃子も渋い。「惚れるなぁ……」と思う。
亡き父は阿波踊りが大好きだった。
すげの笠から見えるか見えないかの女性の顔が非常に色っぽいと、よく言っていた。
そして決まって、
「マリも大人になったら、あんなふうに踊らないかなぁ……」と、子どものわたしに話しかけるのだった。
残念ながら女踊りが似合う艶っぽいキャラには育たなかったが、
祭りの男衆には心底、心惹かれる。果たしてこれは親譲りなんだろうかと思っていたら、Kちゃんに
「阿波踊りの男はカッコイイ。惚れるの、許す!」と言われた。Kちゃん、ありがとう。
フィナーレにはやっぱり泣けた。あんまり美しくて。
今年も、街中が揺れた2日間がいく。
高円寺ももう秋です。
異性意識は年長児から・見た目も大切… 「初恋」研究
だれもが経験し、心の奥にしまい込んでいるもの。山口芸術短大(山口市)の中尾達馬准教授(発達心理学)が、「初恋」をテーマにしたユニークな調査研究をまとめた。アンケートで、幼児期に約半分の人が初恋を体験し、好きになる相手は「見た目」も大事――との結果が出たという。文学的なテーマや映画にも取り上げられてきた初恋。あなたはいつ、どんな人を好きになりましたか?
調査は2007年11月から1カ月間行い、今年春、学内の研究紀要に「初恋についての探索的研究」として結果を載せた。山口県内の幼稚園の男女年中児計32人と年長児の計29人を、中尾准教授のゼミ生が個別面談。同短大1年の女子学生110人にもアンケートした。
園児の個別面談では、まず「好きな子いる?」と質問。年中児27人、年長児28人と、いずれも大半が「いる」と答えた。「誰が好き?」と聞くと、年中児では27人中25人が同性の名前を挙げたのに対して、年長児は半数以上の16人が異性を挙げたという。
一方、短大生には初恋の時期を選択式で質問。約半数の57人が「幼稚園・保育所」、49人が「小学校」と答えた。中尾准教授は「幼児期の初恋の出現率は約50%。年中児では少数だが、年長児になると上昇する」とみている。
では、初恋相手のどこが好きなのか――。「好きな子」に異性を挙げた園児と、幼稚園・保育所と小学校で初恋をしたと答えた短大生を対象に、初恋の「ウラ側」も探ってみた。
園児では、格好いい、かわいい、顔がいいなど「容姿」を挙げた子どもが35%でトップ。家が近い、通園バスが一緒などの「近接性」が21%で続く。短大生の初恋の決め手も「容姿」が33%で最も多く、「優しさ」(19%)や「近接性」(11%)を引き離した。他に「運動神経」(10%)、「面白さ」(8%)といった理由もあった。
また、園児の調査を詳しく見ると、男児では年中児は相手の「容姿」を重視する傾向がみられたが、年長児は「分からない」と答える子が多かった。女児の場合、年中児は「面白さ」を重視するが、年長児になると「容姿」を選ぶ傾向があった。
今回の調査は、ゼミ生が幼稚園に実習に行った際、園児が「好き」「結婚したい」と口にしていることに関心を持ったのがきっかけという。中尾准教授によると、大人の恋愛についての研究は数多くあるが、幼児期の初恋をテーマにしたものは少なく、日本心理学会で発表し、おもしろがられたという。
中尾准教授は「見た目重視という結果は大人の恋愛とも似ていてシビアだった」と苦笑。自分の初恋も5歳だったと打ち明けるが、今後は年中児から年長児になると、急に異性に恋心をいだくワケを探りたいと思っている。(清水謙司)/2010年8月11日(水) asahi.com
歌謡曲が大好きな小学一年生だった。
ある夜、眠るときにふと気がついた。
「アグネス・チャンも、桜田淳子も麻丘めぐみも西城秀樹もジュリーも、みーんな恋の歌ばっかりじゃん!!」
探しても探しても恋や愛の歌ばかりなので頭が混乱しそうになって、
そうでないものを必死で探す…歌謡曲から。
ようやくひとつ見つけたのが、ルネの「緑の屋根」だった。
「大人にとって恋だの愛だのは、ものすごく大問題なんだろう。
じゃなきゃ恋と愛の歌ばっかりになるわけないもの」…というのがその夜の7歳の推察。
それは決してハズレてはいなかったわけだ。大人にとって、恋や愛は大問題だった。
今でもちまたには恋や愛の歌が満ちあふれている。
人を好きになるという感情は、たしかに子どもを成長させる。
思いが真剣であればあるほど、相手について考える。
相手について考えることは自分について考えるのと同義だから(子どもの世界では)、
対象との距離を考えたり、差違やグルーピング、喜ばれることしてはいけないこと、得意不得意、個性について……諸々に考えが及ぶようになる。
それが人を育てる。
好きになる相手との距離は自己感覚では非常に近い。
生まれて初めて他人について真剣に考えるのって、恋愛なんじゃないのかしらん。
自分のエゴを貫いていくために。
大人になって成長すると、恋愛での駆け引きを覚えるものの、
それでも恋愛が人を育むことは大きくは変わらないかもしれない。
二十歳には二十歳の、四十路には四十路の、六十には六十の、恋愛の形があるように思う。
大人になると、自分を成長させるものを自らすくい取ることができるようになる。
それが子どもと大人のちがいかなぁ。
初恋は幼稚園、6歳のときだった。
固く結婚の約束をしたし、嫉妬に燃えたぎり「○○ちゃんとわたしとどっちが好きか、ちゃんと言って!」とか言ってた。
卒園式の日は別れがつらくて大泣きだった。一日中泣き暮らした。
ところが翌日から、小学校に上がって以来、一度も会わなかった。
「会いに行く」というところまで、当時のわたしの成長は及ばなかったみたいだ。
100系新幹線に「青白」復活 引退間近、要望に応え
12年春で引退する2代目新幹線「100系」が7月下旬から、白地に青いラインのデビュー当時の姿で再登場する。「懐かしい姿を最後に見たい」…… /2010年7月3日(土) asahi.com
0系は「びゅわーん びゅわーん はっ しっ るー 青い光りの超特急 時速250キロ~♪」の
70年初頭のイメージ。ザ・国鉄。
おっ、こうして「はしれ超特急」の歌詞を並べると、
なんか中原中也みたいじゃん(「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」←「サーカス」)。
で100系はやっぱり80年代。時代はJRだ。
「シンデレラ・エクスプレス」「クリスマス・エクスプレス」の文字を見るだけで、もう
胸が目頭が熱くなる。いい広告。大好きだった。
一連のJRシリーズのCM、たまりません。
シンデレラもクリスマスも、プランナーが三浦武彦さん & ディレクターが早川和良さん。
ある意味、時代を作ったCMといっても過言ではない、すばらしい仕事。
熱いなぁと思います。
「シンデレラ・エクスプレス」はユーミンの命名(曲は『DA・DI・DA』に収録。これまた80年代の極致)。
「会うのが、いちばん」は、はて、コピーはどなたなんだろう。すばらしいコピーだと思う。
こういうあたたかくてやさしいものを、書きたいな。書きたいな。書きたいな。
変わり者数学者、やっぱり賞金拒否 ポアンカレ予想解決
【モスクワ=副島英樹】数学の難問の一つ「ポアンカレ予想」を解決したロシアの数学者グレゴリー・ペレルマン氏(44)が、米国のクレイ数学研究所(CMI)が3月に贈呈を決めた賞金100万ドル(約9千万円)の受け取りを最終的に断った。
インタファクス通信が1日伝えた。4年前には数学界最高栄誉のフィールズ賞を辞退するなど「変わり者」として知られ、今回も動向が注目されていた。
ペレルマン氏はロシア第2の都市サンクトペテルブルクで母親と暮らし、メディアとの接触も断ってきた。だが同通信に1日、「断った理由はいろいろある。だから結論を出すまでに長くかかった」と明らかにした。主な理由として「数学界の決定は不公平で異議がある」と主張。ポアンカレ予想の解決に貢献した米国の数学者リチャード・ハミルトン氏の功績が十分に評価されていないことを挙げた。
国際数学者会議は2006年、ペレルマン氏にフィールズ賞の授与を決めたが、同氏は「自分の証明が正しければ賞は必要ない」と辞退している。ポアンカレ予想は位相幾何学の難問で、100年間解けなかったとされる。 /2010年7月3日(土)asahi.com
数学ができる人を心底尊敬する。
芸大時代のこと。
数字・数学嫌いのわたしに、「マリちゃん、数学っていうのはものすごく美しい世界なんだよ…」とドアーズ狂の絵描きの友人は言った。
三角形の完璧な美しさについて、とつとつと語る彼。
緻密な点描で、気の遠くなるような絵を描く人だったが、きっと黄金比率なんかをよく使っていたのだと思う。
馬の耳に念仏だったが、こんなにいい絵を描く人が「数学を素晴らしい」と言うなら間違いないだろうと思った。
もちっと早く、幼少のみぎりに数学の美しさを教わっていたら、もしかすると数学に魅せられるわたしがいたかもしれない。
そうかな、ほんとうかなぁ。
小3のときに国語で七五調を習った瞬間に、興奮でめまいがする思いだった。夢のようにたのしかった。
言葉の世界、文字の世界はそれは魅力的だったので、数字まで感性は遠く及ばなかったなぁ。
高校のときの数学は十段階評価で「1」。最下位!
卒業できたのは、数学の先生が親切な方で、教科書を模写するだけで単位をくださったからだ。
「数学ができなくてもは「これからは思う存分、好きなようにのびのび生きてください」と書いてくれた)。
わたしの人生の算数系は小6で終わっており、「数学」にはついぞ発展しなかった。
数学の美学について考えるのは、次の人生の課題にしようと思う。
黒のミニスカでクラリネットを吹いて数学をたしなむ女……悪くない。
「もー、この人、数字に弱いんだから」と笑って許してくれる周りの温かいみなさんに
深く感謝する日々です。
↓ 「月と母」大神守彦さん('90年6月の作品)
宇高航路100年、1日限りの連絡船 名物うどんも復活
高松港と岡山県・宇野港を結ぶ「宇高航路」の開設から100年になるのを記念して12日、瀬戸大橋の完成で姿を消した宇高連絡船が、この日限りで22年ぶりに復活… /2010年6月13日(日)asahi.com
懐かしくて目が釘付けになった記事。
高校時代は、帰省先が愛媛の新居浜だったので(京都・舞鶴に下宿していた)、
帰省のたびに宇高連絡船にお世話になった。
高校の時までは長い休みになると帰省していたから、2年で5回。計10回ほどは乗った計算(最後は大分に引っ越したので、10回で終わった)。
舞鶴から京都までローカル線(しかも単線)で2時間半(場合によっては3時間)、
そこからお金があれば新幹線で1時間半。
岡山あたりでローカル線に乗り換えて、30分ほどで港のある宇野まで。
宇野~高松間が、連絡船でちょうど1時間ほど。
さらに高松から新居浜までローカル線で1時間半くらいか。
それぞれ乗り換えの移動やら待ちやらあって……長い旅路だったことよ。
いつも時刻表と一緒だった。
16歳から22歳まで、人生でいちばんたくさん船に乗った時期でもある。
宇高連絡船は1時間で快適だけど、
東京から九州まで船に乗って、乗って初めて「2泊3日」なことを知り、衝撃だったこともあるし、
猫とも何度か一緒に船に乗った。二等船室でいっしょにごろ~。
盆の帰省パニックで、船内のレストランにも毛布が敷き詰められて難民船のようになったところに閉じこめられたこともある。
船旅はいい。距離感をからだで感じることができるから。
沖縄まで船で行ってみたいな。
な~んて、言ってみただけです(^_^;)
今、それができるなら、とても贅沢なことだと思う。
マーク・トウェイン自伝、一世紀の封印解かれ今秋刊行
【ロサンゼルス=堀内隆】「トム・ソーヤーの冒険」などで知られる米国を代表する作家、マーク・トウェイン(1835~1910)が生前に残していた自伝が今年11月から刊行されることになった。…
自伝は3部構成で、11月に出版される上巻の価格は34.95ドル(約3200円)。 /2010年5月26日(水) asahi.com
マーク・トウェイン=AP
ボブ・ディランに似てる(・∀・)
読みた~い!!! (>_<)
日本語翻訳はいつだろう。
小学校の高学年の時分、日曜の午後7時30分からのTVカルピス名作劇場で
「トム・ソーヤの冒険」をやっていた。大好きだったな。
当時から中学時代、同級生のトム・ソーヤみたいな男の子のことが大好きだった。
だけど本当はハックルベリー・フィンがいちばん好きだったかもしれないな。
ハックといえば、仲井戸・CHABO・麗市さんの「はぐれた遠い子どもたちへ」という歌がサイコー。
ソロアルバム『DA DA』は発売当時(93年)泣きながら聴いてたなぁ。
いつも3曲目の「向日葵10.9」から泣き始める……。ヘビーローテーションだった。
今思えばこそ、ディランとジョージ・ハリスンにいかに色濃く影響受けているのがよくわかるけど、
当時はそんなこと知るよしもありませんでした。
さて、西暦2010年。今頃トムはどこでどうして暮らしているだろう。
人はだれしも普通に明るいところと、それからダークサイドを持っている。だれでもだ、たぶん。
トムのダークサイドなんて知らない。だからトムはわたしにとって永遠のトムであり続けるだろうと思う。
ダークサイドをいかに昇華させていくかが、文学や芸術の課題なのではないか。
占いの不文律なのかもしれない。なんちゃって。
マーク・トウェインの自伝、読みたい。もはや渇望に近いです。
球磨焼酎の博物館「白岳伝承蔵」16日開館
球磨焼酎の歴史や製造工程を学べるミュージアム「白岳伝承蔵」が16日、人吉市合ノ原町の高橋酒造人吉本社工場内にオープンする。… 年間6万人の入場者を見込んでおり、高橋光宏社長は「球磨焼酎の文化を全国に発信し、人吉球磨に観光客を呼び込みたい」と話している。
入場無料。営業時間は午前9時~午後4時。水曜定休。問い合わせは白岳伝承蔵へ。/2010年5月15日 読売新聞・読売オンライン
ご存じの通り、焼酎といえば九州です。
芋あり、麦あり、蕎麦あり、黒糖あり。それから米あり。
北部では日本酒も造りますが、南に行くともっぱら焼酎ばかり。
そう。九州男児は、薩摩隼人も肥後もっこすも博多っ子純情も、焼酎ばかり飲んでいる。
うれしくてもかなしくても夏でも冬でもひとりでもみんなでも。いつでも焼酎。そんなイメージです。
だから、学生時代のわたしの下宿にはいつも焼酎がありました(←客人用。劇団に贈るのは「剣菱」がお約束でした)。
球磨焼酎は、米だけを原料として熊本県人吉盆地の球磨(くま)で作られます。
球磨川は熊本県内最大の川。でもって、日本三大急流のひとつ。
わたしの子ども時分のアルバムにも、球磨川の川下りが出てきます。
この球磨川の豊かな水が、米を育み、焼酎を育むというわけです。
先般、高橋酒造の広報部長にご挨拶させていただきました。
それで「白岳伝承館」がオープンしたと伺った次第。こちらです。
次、九州行けるのはいつだろう、わたし……と、遠い目をしつつですね。記事を読みます。
九州いらっしゃる方はぜひお出かけくださいね。
わたしは空港付近で「しろ」の巨大な看板を見ると、
「九州! 帰ってきたばーい (*^_^*)」と思います。
国内最大級のサンゴ群集 沖縄・久米島、WWF調査
世界自然保護基金(WWF)ジャパンは18日、沖縄県・久米島の南東海域に大規模なサンゴ群集を確認したと発表した。石垣島白保のアオサンゴ群集(南北約300メートル、東西約150メートル)を上回り、環境省によると、サンゴ群集としては国内最大級… /2010年5月19日(水) asahi.com
沖縄県久米島で発見されたサンゴの大群集=水中写真家・横井謙典さん提供
Sちゃんが隊長になり、6月末の引越を目指して、書架の大整理大会を行った。
ブックオフへの箱が6箱。
処分したもの数知れず。
甲斐あって、エレクタの半分くらいに空きができた。バンザーイ。
新しいものがたくさん入ってきそうでうれしいなぁ。
およそ20年前に編集した『ぴあマップ沖縄』が出てきた。
マップと誌名につくほどだから全島の細かなマップがある。
この本のへんてこなところは「海の中のポイントマップ」もつけたことだった。
グルメやショップと並んで、海のポイントもマッピングされている。
この写真にあるような海の底のブルーな写真がずらっと並んだページがあった。
たとえ写真が間違っていても、誰からもクレームはこないんじゃないか……。
それにしても大きなサンゴ。久米島の話だけども、思いは字面の似ている久高島へ……。
久高島、行ってみた~い。
ぴあマップ沖縄発刊した1992年は、沖縄返還20周年記念だった。
ちょうどその頃、白保のサンゴを守る話で沸いていたように思う。
身の周りに、意識の高い人たちがいたせいで、そう感じたのかもしれない。
WWFの「しらほサンゴ村」ができたのは、そのずっとあとだ。
ここしばらく、石垣・宮古・西表方面の掲載情報確認中です。
波照間島の民宿の方と電話で話したら
「暑くて確認してらんないよー。こっち30度だよぉ(笑)」と言われました。
石垣の方は「梅雨入りで~す」とのこと。ふっと島の風の匂いを思い出す。
この夏は行けるかしらん。
そうそう。「匂」の字も、新しい常用漢字に含まれるそうな!
「毛深い、からかわれた」増える子ども脱毛、時代映す?
暑さとともに肌の露出が増え、女性はむだ毛が気になる季節。そんな中、脱毛にエステサロンを利用する子どもが増えている。人…
/2010年5月10日(月) asahi.com
15年前くらいの話。
「成人式に振り袖なんていらんから、ワキの永久脱毛のお金ががほしいわ」と言った友人がいた。
さもありなん と思った。
女性にとっての脱毛問題は深刻なのだ。たぶん成人式の振り袖よりも。
「毛深いのがイヤ (T_T)」という少女の気持ちは、痛いほどよくわかる。
わたし自身がそうだった。
女子はたいていマセているけど、わたしもやっぱりおませさんで、
小五のときには資生堂の会報誌『花椿』が大好きで、近所の薬局にもらいに行ってた。
きれいな冊子だったよなぁ。
はじめて脱毛クリームを買い始めたのもその頃だ。300円。
腕の脱毛をするためだった。
おそるおそるやってみると、ほ~、とれるとれる。満足。
で、次にやったのは、鼻の下だった。
鼻の下の産毛がコンプレックスだったから。
もちろん「手足以外に使わないこと」と、注意書きに書いてあるのはちゃんと読んだ。
でもでもでも。そんなことで不抜けていても仕方がないじゃないか。
痛みに耐えながら時間は守ったが、肌は守られず大変なことになっちゃった。
脱毛クリームにやられて、鼻の下がところどころ、ぺろーんと薄皮がはがれてしまったのだ。
翌日学校に行くのがたまらなかったなぁ。
「どうしたの?」と訊かれても、恥ずかしくて言えないし。
かさぶたになっちゃって、もう、どうしようもなく恥ずかしかったのをよく覚えている。
脱毛のあと、伸びてくる感じがいやで、すぐに脱色にはまって、
これはそのあと十年くらいお世話になった。
やりすぎて真っ白になったりしてた。とほほ。
足なんて、脱色すらイヤで、毎晩スネに軽石かけていた時代もある……かわいそうに。
友人から譲り受けた脱毛器を試したことだったあった。
とらわれることの哀れさよ。
自分が思うほど、他人はそんなに人のことなんて気にしちゃいないし、見ちゃいない。
そういうことをわかるのにずいぶん時間がかかったし、そういう個性を自分で認めるのにはもっと時間がかかっちゃった。
だあれもそんなこと、教えてくれないもの。
女の子はいつだって、なんとかきれいになろうとか美しくなりたいとか、人知れず、思っている。
それは煩悩かもしれないけど、永遠にあり続けるのかもしれない。
ステレオタイプの美の基準を変えられたらいいのにな。
「人間は中途半端に毛が生えているから難儀なんだな」と、思春期に考えた。
毛深いのを悩むクマさんはいないし、もしもみんなが毛深いのなら、自分の産毛をいやがったりしないだろう。
ものの見方ひとつですね。
たくさんの視点を持てるようにありたいものです。
ごんぎつねが戻ってきた? 知多半島で珍しい野生捕獲
新美南吉の童話「ごんぎつね」の舞台になった愛知県・知多半島で6日、野生のキツネが野犬捕獲用のオリにかかった。半島内では昭和40年代にキツネが姿を消したが、十数年前から目撃はあったという…
/2010年5月7日(金) asahi.com
『ごんぎつね』はずいぶん大きくなってから触れた。
たぶん小学校の2年生くらい。幻灯のようなもので観た記憶がある。
涙が止まらないくらい悲しいお話だったなぁ。
『ごんぎつね』というと、いまだに、火縄銃の火薬のニオイを思い出す。
火縄銃なんて、本物を見たことも、嗅いだこともないのに。想像力って不思議。
フクロウ「里親」はおばあちゃん ヒナ育て放鳥20年
毎年屋根裏で生まれるフクロウのヒナを大きくなるまで育て、山に返し続けている広島県神石高原町の見永(みなが)豊子さん(79)の“子育て”が、今年で20年目を迎える。… /2010年5月16日(日) asahi.com
見学に来た子供たちの前でフクロウのヒナを手に乗せる見永豊子さん=広島県神石高原町、高橋写す
このページを作ろうとしてWEBに行くと、そこには動画が用意されていて、泣けました(ちーん)。
フクロウくんが森に帰るシーンです。
見永おばさんがフクロウを木の上に置いて、「森にお帰り」と言っても、
フクロウはその場を離れません。
「森へは行かないよ。おかあさんとずっといるほうがいい」と言っているみたいで……見ているこちらは号泣。
結局夜になると、森に帰っていくんですけどね。
ちょっと寂しいけれど、めでたし、めでたし。
それにしても、51羽も育てるなんて、20年間ずっとだなんて、見永さん、すごい、すごい、すごい。
愛情いっぱいに育てながら、独占欲なんかはきっとぜんぜんなくて。
「ゆく川の流れは絶えずして……」が思い浮かぶのはなぜだろう。
子どもの頃……まだ3歳の時分、巣から落ちたスズメのヒナを兄が持ち帰り、うちで育てていた。
スズメはピーコという名前だった。
見永さんのフクロウと一緒で、育って元気になったので
「森にお帰り」と言って放しても、うちにすぐ戻ってきた。
お友達のスズメが塀に並んでさえずるのを、部屋のなかで不思議そうに眺めていたけど、あちらへは行かないのだ。
ずいぶん長く一緒にいた気もするが、当時のわたしは三歳なので、
「ずいぶん」と言ってもたぶん2か月やそこらの話なのだと思う。
ピーちゃん(ピーコ)は、引越の前日に兄の友達が大勢うちへやってきたとき、圧死。号泣。
当時、大分の家では、ご飯をあげる野良犬が2匹いて(また機会があればゆっくり書きますが、このネタだけで5000字いくので、今回はパス)、
裏の川に魚籠をさげて、父が釣ってきたウナギを入れていた(そのあと食べる)。
裏の野原には山羊が1匹いたし、その野原では、兄から服の襟元からカナヘビを入れられたりしたっけ。
近所の養豚場に、豚さんたちをよく見に行った。
のどかな景色をよく覚えている。
「白川静文庫」母校立命館に 直筆原稿や蔵書1万8千点
今年で生誕100年を迎えた中国文学者で、立命館大名誉教授の故・白川静(しらかわ・しずか)さんの蔵書や直筆原稿など約1万8千点を収めた「白川静文庫」が10日、立命館大(京都市北区)の図書館に開設された。
白川さんは字源辞典「字統」、古語辞典「字訓」、漢和辞典「字通」の3部作を著し、漢字研究の第一人者として知られた。2004年に文化勲章を受章し、06年に96歳で亡くなった。
遺族が08年、自宅に保管されていた中国の古書や直筆のノートなどを母校の立命館大に寄贈。学内の「白川静記念東洋文字文化研究所」などが2年がかりで整理した。加地伸行所長は10日の記念式典で「文字学の研究拠点のための基礎になる」と語った。 /2010年5月10日asahi.com
ここ1か月だろうか。白川静先生はマイブームなのだ。
漢字への愛が半端ない方でとにかく素晴らしい。
一度お目にかかりたかったな。
いや、せめて、生きておいでのうちにこちらが開眼していたならば……
ひと呼吸おそかった。
もともと漢和辞書は大好き。わたしの机上にあるのはお約束の大修館書店の『漢語林』。
形から入るタチなので、「漢字は大修館書店でしょ」という頭があった。
芸大で副手をしていた時分、
研究室の書庫にあった『大漢和辞典』(全15巻)を尊敬のまなざしで見つめていたから。
「漢字といえば大修館」なのだ(ちなみに『漢語林』は『大漢和辞典』の超々ダイジェスト版。価格は80分の1(^_^;))
そこに白川静先生の『常用字解』が加わった。
常用漢字だけで、『漢語林』とほぼ同じ厚さ。熱さはそれ以上!
読んでいるとうんざりするほど面白い。
恐いイメージ、不気味なイメージが多いのですね、漢字の成り立ちって。
「真」の字なんて、
もとの字は「七」と「県」を組み合わせた形で、七は人を逆さまにした形で、死者の形。
県は首を逆さまに懸けている形で、眞は不慮の災難に遭った行き倒れの人のことをいう……
云々。
真は死者で、それはもはや変化するものではないから、永遠のもの、真の存在の意味となり、
「まこと」の意味となる……
……って、お~~~~い!!!
なによりショックだったことは、「真李」の「李」の字は、常用漢字ではなかったことだった。
今年、久方ぶりの常用漢字の改訂だったけど……入ってたらいいなぁ。
芸大時代の恩師が、俳人の故・鈴木六林男先生なのだが、
この方が漢字の使い方ひとつに非常にうるさい方だった。
藝術、文藝、を「芸」と書くと叱られた。
「漢字には意味がある。芸は終わりの意味があるし、藝ははじまりだ」と言われて鍛えていただいた。
漢字に開眼させてくださったのも、六林男先生だな。
さらなる深淵をのぞかせてくださるのが、白川静先生だ。
漢字、おそるべし。
紫カーテンやっと見頃 栃木・足利、樹齢140年の大藤
栃木県足利市の「あしかがフラワーパーク」で、樹齢140年の「大藤」が見頃を迎え、…
今年になってから、藤がちょっとしたマイブーム。
昨日、事務所へ行く道すがら、うちの近所のお宅の庭にある藤棚を、遠巻きに眺めていた。
そういえば通っていた幼稚園にも藤棚があったんだ。
ためしに、幼稚園のクラスを順に思い出してみた。
さつき、あざみ、りんどう、ひまわり、さざんか、なでしこ。
全部言える。
担任の先生の顔を思い出してみる。
さつきぐみの梶川先生(自分の担任)……以外は、名前はわからない。
でも顔は全部思い出せる。なでしこの先生が、はかなくきれいだったこと。
ひまわりの先生が都はるみに似ていたこと。りんどうの先生の大きかったこと。
たしかさざんかの先生は途中で産休、あざみは普通にかわいい人だった。
さつきの梶川先生の第一印象は今も覚えている。……カッパみたいだと思った。
入園した当初、最初に習った歌を覚えている。
たしか、毎月の歌があって、毎月もらえる絵本の副読本に載っていた。
アネモネ駅から汽車ポッポ
さくらそうのなか走ってく
ぽぽぽぽ ぽぽぽぽ
しゅー ぽぽぽ
半音階が微妙に気に入らないのと、終わり方が腑に落ちないので、あまり好きになれない曲だった。
しかも、「誰が!」と突っ込みたくなる不明瞭さ。
4月がこの歌なら、5月はつばめの歌(これは大好き!)、6月は、
「ブーランコ毛虫が1,2,3 藤棚の下で1,2,3……」みたいな、眠い歌だった。
幼稚園で習う歌は、結果が明確でない、中途半端な曲が多くて、
子ども心に、不思議というか、不完全燃焼気味だったのだ。
いっぽう、なにかの合図でかかる『おもちゃの交響曲』はとても好きだった。
少し育って、小学生の頃か、タイトルを知ったときにさらに好きになった(情景が浮かぶんだもの。アンデルセンの世界!→『なまりの兵隊』)
5月のつばめの歌が好きなのは、『幸福の王子』やら『おやゆび姫』が好きだったせいかもしれない。
……藤棚を見て、源氏物語に行くわけでもなく、幼稚園時代に思いを馳せるとは。
でもね。藤、きれいです。
藤棚の下でのんびりしたいなぁ。
清志郎さん、デビュー直前の音源 高校時代の恋人に贈る
ロックシンガーの忌野清志郎(いまわの・きよしろう)さんが昨年5月2日に亡くなって、間もなく1年。清志郎さんが高校時代の交際相手に贈った自作の歌のテープが確認
… /2010年4月23日(金) asahi.com
あした。5月2日でちょうど一周忌。早いなぁ。
まだTVの画面で清志郎さん映っていると、とっさに逃げちゃう。
この記事も朝の電車のなかで読んで、顔を上げられなくなった記事だった。
一緒にするのはどうかと思うが、まあ、いいか。
高校時代、仲のいい先輩たちも曲をたくさん書いて、歌っていた。
60分やら90分やらのカセットテープに曲をまとめて、「アルバム」としてまわすのだ。
それがものすごくよかった。今でも覚えている曲はあって、ときどき口ずさむことがある。
今日も鼻歌が出て、高校生とは思えないほど完成度が高いと思ったので、残しておこう。
マイナー音階にきれいにのってて、インパクトあったんだよな……。
「冬の雨」 作詞:田中房親
今さらあなたがいい話 してくれるなんて思ってなかった
自然なフリして遠ざかる あなたにうすうす気づいてた
だからバイバイ・グッバイさよならは……
だからバイバイ・グッバイさよならは……
雨が降る日が好きだった あなたもわたしもお互いに
小さな傘に身を寄せて 片方の肩を濡らして
だからバイバイ・グッバイさよならは 雨が降るまで待ちましょう
だからバイバイ・グッバイさよならは 雨が降るまで待ちましょう
窓ガラスの曇りの上に 指でそっとしずくをたどる
もう終わりだね ふたり最後に肩を抱きしめて
だからバイバイ・グッバイさよならは 雨が降るまで待ちましょう
だからバイバイ・グッバイさよならは 雨が降るまで待ちましょう
あなたとわたしの人生をあざ笑うかのように
突然降りしきるとても冷たい冬の雨
だからバイバイ・グッバイさよならは 雨が降るまで待ちましょう
だからバイバイ・グッバイさよならは 雨が降るまで待ちましょう
はて、本人もちゃんと覚えているんだかどうだか。
高校生の頃、歌の中で「あなた」にしてもらえるのにこっそり憧れたもんです。
というわけで、「2時間35分」の彼女がうらやましいこと!
清志郎さんのエピソードで、自分の青い時代まで鮮明に甦えるのだった。
わたしも、大学ノートに詩をまとめて、「詩集」としてまわしたっけなぁ。
人ってあんまり変わらないんだな。
淡く色づく春紅葉 夜にかけ風雨強まる 宮城
低気圧が日本の南岸を東北東に進んでいる影響で、…2010年4月28日(金)Kolnet
きれいな言葉だな、「春紅葉」。初めて知りました。
ついでにきれいな文章でした、第2段落目。
明治通りのコイチョウは順調に育っている。
今年はゆったりのっそり、静かに春が進んでいく。
この雨が上がれば、初夏はくるのかしらん。
さよならフロッピー 国内最大手、ソニーが販売終了へ
/2010年4月23日(金)asahi.com
タイトルだけで、心臓わしづかみ。
「さよなら フロッピー」。なんてかわいい響きなんだろう。
フロッピーちゃん。二十代のはじめ、ワープロが世の中に普及しはじめた頃からのおつきあいだった。
シャープの「書院」。たいへんお世話になりました。大好きなワープロだったな。
大きな大きなワープロだったけれども。
そうそう、フロッピーが消耗品だと気がついたときの驚愕を、今も覚えている。
どうしたら書いたものは完全保存できるんだろう。
先日は外付けのハードディスクとPCと一緒に壊れてしまったし。
永遠の記憶は、永遠の課題なのである。
25年経って、赤茶けてきた感熱紙の文字を見ながら、「消えないで」と思う。
久しぶり「花ずきんちゃん」 花博20周年記念で復活
大阪・鶴見緑地で1990年に開かれた「国際花と緑の博覧会」のマスコット「花ずきんちゃん」が復活し、…
/2010年4月12日(月)
花ずきんちゃん!!! 会いたかったぁ(*^_^*)
1990年。わたしの仕事場は花博会場だった。催事広報室に出向していたのだ。
訪れたお客様みなさんに配る『イベントニュース』(週間)の表紙を作っていた。
ビジュアルの手配に、それからコピーワーク。
閉会後の記録誌を編集するのが大命題だったので、
2つあるホールで行われる全イベント、パブリックスペースのイベントに極力顔を出して取材しつつ、同時にイベントニュースを作りつづけた。
休みなんてなかったけど、ひと夏とても楽しかった。
そう。わたしのコピーワークは、花ずきんちゃんとともに始まったのだ。
そしてそのときに室長に褒めていただいたのが今日に至る力になった。
手元に当時のイベントニュースが残っている。
体裁はつたないが、コピーは悪くない。おほ。
ドライブスルーでちゃんぽん リンガーハット、佐世保で
「長崎ちゃんぽん」のリンガーハット(東京)が、ドライブスルーでのちゃんぽん提供に/2010年4月15日(木) asahi.com
社長、わたしは、ちゃんぽんよか、皿うどんが食べたかです!
リンガーハットは、九州の人ならきっとみんな知っている
ちゃんぽんと皿うどんのファストフード店。
東京でも渋谷や吉祥寺にあって、見つけしだい入りたくなる。安くておいしい。栄養たっぷり。
ドライブスルー、素敵じゃないですか。がんばってくださいっ。
育ちは全国なのだが、わたしが採れたのは九州。父は肥後もっこすで、母は火の国の女。
九州に足を踏み入れると、DNAレベルで、ここが故郷だということが理解できる気がする。
九州弁のヒアリングは完璧だ。しゃべるのは下手。
ただ、気を抜くと不意に単語が飛び出し、失笑を買う。
「ねまる」(→腐敗する)とか「じゃれる」(果実などの熟れすぎ状態)とか、「はわく」(→掃く)とか、「なおす」(→しまう)とか、「たぎる」(→煮立っている)とか、「つ」(→かさぶた)……とか、いろいろ。九州弁ですが、なにか?
さて、子どもの頃から我が家の日曜日の食卓は、ほとんど焼きそばだった。
「焼きそば」というと、普通に皿うどんのことを指していた。
だから「皿うどん」という言葉すら知らなかった。揚げたカタ麺の上に野菜あんがのってるのが、焼きそばなのだ。
大阪に引っ越したとき、はじめてソース焼きそばを知ったとき。あのカルチャーショックを今も忘れない。
そう。小一のとき、よそのお宅で初めてカレーライスをいただいたときと同じ驚きだった。
はじめてよそでいただいたカレーライスは、ご飯とカレーがわかれていた。おまけに卵がない。
「……おばちゃん、卵は???」と普通に尋ねて、みんなにへんな顔をされた。
周りの子どもたちが、そのカレーライスをごく普通に食べているのが不思議でならなかった。
カレーライスって、卵が入ってて、ぐちゃぐちゃに混ぜて食べるものとちゃうのん?(すでに関西弁)
と、逡巡している子どもはわたしだけだった。
ついでに「しょうゆが欲しい」と思ったのもわたしだけだったろう。
のちに大阪・自由軒の名物カレーを知ったときに「そう。これ!」と思った。織田作ごのみ。
ああいうのが、わたしのカレーライスの原風景だったのだ(ただし、ドライカレーというわけではない。ただ混ぜるのだ。ぐちゃぐちゃに)。
念のため、九州の人にも、「そがんとは知らんねー」と言われる。
うちだけ、でしたかね(^_^;)
焼きそばとだんご汁(だご汁という)で育てていただきました。
処分のピアノ一転、樺細工まとい復活の調べ 仙北・神代小
秋田県仙北市神代小の新校舎建設に伴って、処分される運命だった古いグランドピアノが、伝統工芸「樺(かば)細工」を施され復活した。
/2010年03月04日木曜日 河北新報
子どもの頃、新しいものが欲しくて欲しくてたまらない時期があった。
小学校3年生だか、4年生だかのころ。
この時期の子どものこと、物欲は文具品関連に炸裂していたのだけど、
当時、母にたしなめられたのをよく覚えている。
そのときに母から、時間を経たものだけが持つ美しさと尊さを、教えられたのだった。
たしか……「新しいものの美しさはみんなにわかるものだけど、
時間を経た、古いものの美しさは、たぶんあなたにしかわからないものだ」
そんな風に教えられたと思う。子供心に、その言葉にしびれちゃったんだ。
BGMは鶴田浩二「傷だらけの人生」で!
どこかの誰かの愛した価値のある骨董品とかじゃなくて、
自分の手のなかで時を経ていく日々のものたちは、どうしてこうも愛おしいのだろう。
『星の王子さま』でキツネが王子さまに言う台詞……
「君はバラに時間をかけたから、バラに対して責任がある」
いつもそれを思い出す。愛情ってそういうことじゃないのかしら。
小林秀雄の講演テープ発見「歴史を知るには想像力必要」
文芸評論家の小林秀雄(1902~83)が晩年の大作「本居宣長」の執筆を始めた65年に、宣長について語った講演の音源が見つかった。…
/2010年3月2日(火)asahi.com
わたしがまだ高校生だった時分、
大阪藝大(芸術学部文藝学科だった)を受験するときの受験勉強は
ひたすら岩波の『文学』のバックナンバーを読み漁ることだった(結果、これが功を奏したとはとうてい思えないが)。
同時期に、小林秀雄の『私小説論』は、もうこりゃ絶対、と思って受験勉強に読んだけれど、
「こうさ~~ん!!」だった。
受験本番の面接のときに、面接担当だった学科長とそんな話になった。
「最近読んだ本は?」
「『私小説論』です」
「いかがでしたか」
「わかりませんでした(^_^;)」
「じゃ、入ってから勉強してください」
そんな感じで、5分も経たずに面接が終了して、「…落ちたか」と思ったら受かっていた。
前略 小林秀雄先生。
40歳半ばになって、ようやく古事記までたどりつこうとしています。いえ、まだまだです。
「『学んで知る』にとどめるのではなく、『思って得る』ところまで進めなければ学問ではない」という言葉が、今ならよくわかります。
そう、思って得るところまで進めなければ。
情報を知識に、知識を糧に思考へ、思考が紡ぐ何かを形にしなければ。
浅川マキさん急死 公演先ホテルで倒れる
演出家寺山修司さんに見いだされ「夜が明けたら/かもめ」などの曲で/2010年1月19日(火)asahi.com
18日の夜に友人からメール。
「浅川マキさん、亡くなったんやってね」。
呆然……。
ご冥福をお祈ります。
「夜が明けたら」「かもめ」……『浅川マキの世界」は大好きなアルバムだった。
芸大時代、友人Oちゃんがテープに録音してくれてそれを聴き倒していた(浅川マキもジャックスもAUTO-MODも、すべてOちゃんがわたしのネタもとだ)。
もともと寺山修司が好きで、その寺山ワールドをそのまま聴かせてくれる人が、
わたしにとっての浅川マキだった。
同時期に、「田園に死す」にもハマった、ハマった。
寺山修司は、わたしが高3のときに亡くなった。
週刊誌にあった死去の記事に目をやりながら
「マリちゃん、寺山修司は知ってる?」と、行きつけの喫茶店のマスターが訊く。
名前くらいしか知らないと答えると、
「あかんやん、テラヤマはちゃんと知っとかんと」。
読めと言われて読むタイプではないのに、
それから寺山修司の詩の世界にのめりこんだ。
天井桟敷、自分の目で観たかったな。
喫茶Az(アズ)のマスターには、ほかにも
「森有正くらい読んどかんとあかんで」と教えられた。
「経験について」は、高校の現国の教科書で読んで、血肉になったものの、
当時はその程度の知識しかなかった。
マスターに、たしか森有正全集のなかから何冊か借りたような記憶がある。
わたしが接した最初の大人だったのかもしれない、Azのマスター。
下宿生だった高校時分、とてもよくしていただいた。
森有正といえば。
高3の夏以降、ほとんどの授業中を、図書館で借りた岩波の『文学』を読んで過ごした。
めちゃめちゃ古いやつばかり。
紙は茶色く色を変えていて、どうかすると送りも旧かなだったりするようなやつを読み倒していた。
『文学』を読むのが、わたしの唯一の受験勉強だったんだけど(芸大の文藝受験用だ)、
受験にはほとんど、いやまったく意味がなかったんじゃないかと、今にして思う。
べつに誰にもやれといわれなかったことを、どうしてあのときやり続けていたんだろう。
校正者の通信教育で4級取得したのも同時期だ。なぜだろう…。
受験には大して役立ちはしなかったが、人生の役には立った。
浅川マキも、ジャニスも、わたしが素敵だと思う女性はみんな紫煙に包まれていた。
ふたりともいなくなっちゃったんだなぁ。
合掌。
「浅川マキの世界」が聴きたい夜だよ。
中学歴史教科書シェア、「つくる会」系じわり増
/2009年11月5日(金)asahi.com
いやなニュースだな……と思って読んだ。
杉並区(住人です)は「つくる会」の教科書を採用していて、わたしは1年以内に
高円寺駅前での「つくる会の教科書採用反対運動」に賛同して署名したんだけどなぁ。
もちろん無視。来年ももちろん、杉並では「つくる会」教科書が採択されてしまう。
「なんだかよくわからないニュース……」と感じる向きもあると思う。
「つくる会」は「新しい歴史教科書をつくる会」(社会運動団体)の略で、
「従来の日本の歴史教科書は自虐史観に基づいている」という考えのもとで編纂された教科書を推奨する。
「日本のアジア侵略の歴史? “侵略”なんて、それは一方的な見解です」的な立ち位置なのだ。
たしかに、歴史も、記憶も、体感したての昨日の事実すら、
語り手の立ち位置によって、そのありかたは容易に変わってしまうもの。
自虐といわれようとも、「あのときは悪かった」と、素直に反省するほうが好きなのだ、わたしは。
じわじわと「つくる会」系が伸びて、その先にあるのはなんだろう。
子供たちはどんなふうに、過去の日本・今の日本、そして世界を感じるのだろう。
余談ですが。
国語の教科書が大好きだった。毎年、いただいたその日に全部読破した。
初日に読むのは楽しくてしょうがなかった。
とくに「光村」の教科書が大好きで、表まわりの色もすてきだったんだけども、
今思えばあれは、PP加工をしていたんだなとわかる。
光村の国語の教科書だけが、ピカピカだったから。
1年生の下巻の「スーホの白い馬」(上巻はたしか「赤いスポーツカー」)、
3年生の「ピノキオ」(初めて「死」という漢字が登場。ピノキオが「死んじゃう、死んじゃう」と走っていくシーン)。
5年生の「どろんこ祭り」(「せっちゃんはおきゃんで、まるで男の子みたい。」から始まる)……
相当ステキだったと思う。
そういえば、大学生になってカテキョーをしている頃、
当時の教え子(小6)の教科書(たぶん光村)に、谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」があって、
泣くほど感動したのを覚えている。
きょとんとしている子供相手に、この詩の素晴らしさを延々語り続けたのはハタチのわたし。
冷泉家秘伝の香り、100年ぶり復刻
/2009.10.26(月) asahi.com
10年前に東京に来て、最初のブライダルの仕事は箱根。次は神社だった。
押しかけ女房的に東京へ来たので、既存の(?)編集のみなさんが好んで行かない場所の担当だった。
というと言葉は悪いけれど、箱根は遠隔地で経費換算すると分が悪いし、
今ほどの和婚ブームがあるわけでなしだったから、当時の神社は
既存の(?)編集者のみなさんには、ホテルやハウス、レストランほどは人気がなかったのだ。
わたしはといえば、当時から神社好き。
東京の神社をまわれることにかなりワクワクしていた。
しかしまわらせていただく東京の神社さんはいずれも、
京都に比べるとずいぶん新しい感じがする(府中の大國魂神社のぞく)。
まあそりゃそうですけど。1200年の歴史と100年では大きく違います。
またわたしが、京都好きだから、余計だろうけれど。
しかし、そのときに某神社の広報担当者さんとお話をしていて
目からうろこが落ちた瞬間があった。
名字をお見受けして「?」と思い、公家の話になったのだ。
それは、明治維新のあと、天皇家が江戸に移動するときに
周りの親しい公家たちは、みな天皇と共に江戸にのぼったというお話だった。
数にして百くらいらしい。
「京都に残っている公家は、そのときにご一緒できなかったおうちというわけで……云々」
たしかに、皇室御用達の鳩居堂も、ご不便がないようにと、皇室の上京にあわせて東京へ出てきたと聞く。
なるほどね。伝統は、西から東に移動したといっても過言ではないのかもしれない(京都の人、気を悪くしないでくださいね。仮定だから)。
ガワは新しくとも、伝統はここにある。
わたしが東京を一気に大好きになった瞬間だった。
連綿と続くもの、わたしには見て取れないものを、初めてこの地で豊かに想像することができたのだ。
冷泉家と聞くと、そんな話を思い出す。
それにしてもその高貴な香り、死ぬまでに一度、嗅がせていただきたい。
寒くなったので、デスクにつくときには膝掛けをして、
エッセンシャルオイルを垂らしてます。
今日はローズウッドとバリ島のフランジパンニ。もう充分しあわせでっす。
2019.3.28追記
この時代は罪悪感なしに、ふつうにローズウッドだったんだなぁ。もう二度と買えない、買わない香り。
猛暑の英国 動物園のゴリラも夏バテ対策
イギリス・ロンドンでは今夏、気温が30℃を超える日が多く、動物園のゴリラも夏バテ対策~~一番のお気に入りはアイスティーだという。/日テレNEWS24 2009年8月20日(木) 22:25
小学生の3年生くらいのときのこと。
暑い日に「なにか買ってもいいよ」と50円渡されたら
間違いなくアイスを買った。30円だし。
ほんとうはジュースにしたかったのだけど、ジュースは50円。
さらにジュースは一瞬にしてなくなるけど、アイスはジュースに比べて長持ちする。
コストパフォーマンスを考えると、そこはアイスになっちゃう。
ほんとうはいつでもジュースががぶ飲みしたかったから
ゴリラさんの気持ちはわかるのであーる。
しばりがなかったら、「ゴクゴク」のほうが暑い日にはダンゼンいいのだ。ペロペロよりも。
おいしそうな介護食、商品開発に熱 食品各社
高齢者向け「介護食」が進化している。やわらかくのみ込みやすいというだけでなく、おいしそうに見えるのだ。食べてみると、実際、味もいい。高齢化で成長する市場をリードしようと、各社の商品開発が熱を帯びている……/2009年8月16日(日) asahi.com
おいしそうな介護食って、ありそうでなかったのだ。
年寄り分野って、開拓が圧倒的に遅れているというか、
子どもにお金をかける親はあまたおれど、
年寄りにお金をかける子どもはいない(「お金がかかる」ことは多い)。
編集職に就く前に、老人ホームで少しだけ働いたことがある。
「これからは福祉の時代。老人介護を仕事にしよう」と、考えてのことだ(お年寄り、好きだし)。
わたしの担当は特養だったので、
お世話するのは、痴呆だったり、からだが不自由だったり、身体的に問題のあるお年寄りばかり。
なかにひとり、口のきけないおばあさんがいた。
目がきちんとしていらしたので、言葉が不自由なだけで、きっと意志の疎通はできているような気がしていた。
おむつの取り替えのときなんかも、いつもこちらが一方的に話しかける。
返事はない。ほんのときどき笑顔になることがある。そんな感じだった。
おとなしい物静かなおばあさんで、わたしの大好きなおばあさんのひとりだった。
ある日、食事の介護をしているときのこと。
ちょうど記事にある、ミキサー食だった。
記事にもあるとおり、ミキサーにかけて、お年寄りが噛まずに嚥下するだけで消化できるようにしてある食事だ。
たしかに安全だけれど、味気ないことこの上ない。
てゆうか。
ほうれんそうのおひたしのミキサー食なら、まだわかる。
でも、たとえば、肉じゃがのミキサー食って、どうよ!?
当時、そういうものが、おばあちゃんのお食事だった。
介護といっても、スプーンで食べさせてさしあげるだけ(たしかに、介護初心者が食べさせても事故は起きない)。
おばあちゃんは、いつもあんまり食が進まない。
ときどき、イヤイヤに見える仕草をする。でもゆっくり、最終的には食べてくれる。
食べさせながら、食が進まないおばあちゃんを見ながら、なんだかせつなくなっちゃって、
「ねー、Sさーん、おいしい?(おばあちゃん、まったく無反応)
そうか。おいしくないか。そうだよね。このお食事じゃあ味気ないよね」
とわたしが言った途端、
おばあちゃんは大粒の涙をぽろぽろ流して、泣き出しちゃったんだ。
余計なこと言ってごめんなさい、と反省したけれども、
ミキサー食は相当つらかったんだとも思う。
「ミキサー食」の記事で、あの風景を鮮明に思い出した。
介護食が進化するのはとても素敵なこと。
ようやくそんな時代が来たのか。あれから20年だ。
特養には「味気なくて食べた気がしない」なんて言える方はほとんどいないし、
お年寄りは子ども扱いされるし、効率のためにおむつ、ということもある。
理想と現実の乖離というか、せつない状況がそこにあって
もしかすると、それは今も変わらないかもしれないと思う。
でも、ほんの小さなところからでも、少しずつ変わっていくならいいじゃないか。
“町のギャング”カラスがアユ漁
愛知・豊田市で、アユの遡上(そじょう)が盛んになっている。そのアユを鋭いくちばしで捕らえる水鳥の中に、1羽のカラスの姿があった。
このカラスは、ほかの水鳥のまねをしてアユを捕まえる。…専門家は「見て覚えようとしているのではないか」…/2009年5月27日(水) 日テレNEWS24
あたたかい地方はたしか6月1日あたりがアユの解禁だろうか。
東北のほうは7月1日じゃなかったっけか。
亡父はアユが恋人だった。自分でそう言ってはばからなかった。
仙台でアユ釣りを覚えると、夏になると、休みのたびにアユ釣りばかり。
家族を顧みることもほとんどなく、社宅で母は「釣り後家さん」と嗤われていた。
父が釣ってきたアユに、小学生のころ、お醤油をかけてものすごく叱られた。
「アユに醤油なんてあるか」
いまならわかる、そのふくいくたる香り。
けれど子どもにはその香りがわからなかった。醤油のほうが絶対おいしいと思った。
面倒くさいからアユは嫌いだった。型のいいのなんて、脂っこくてとくにいやだった。
我が家は夏の間じゅう、休日の夕食はアユの塩焼きだったんだもの。
それはそれで、子どもにとってはちょっと悲惨だったのだ。
あの頃の父と同じ歳になる。
今では初夏のアユの解禁のニュースを、どこか心待ちにしている。
そして、ありがたいのと懐かしいのと、いつでも少し不思議な気持ちで、香魚を楽しむ。
これが、父の恋人と、どこか慈しむような気持ち。
それにしても、香魚をいただくなんて
最近は、カラスもえらいグルメになったもんだ。さすがカラス。誉めてあげたい。
がんばれよ。
若者よ、まず電柱に登れ……北陸電力の新人研修
北陸電力(富山市)で20日、高さ14メートルの電柱に登る新入社員の研修が同市内であり…/2009年5月20日(水)
お世話になっているエディトリアルのデザイン事務所が、
このDTPの世にあって、新人社員に、
デザインアップに入稿用の指定をいちいち手書きさせていた。
このご時世では、作業の流れから言うと、それは全く不要なことなんだけども。
「それが基本だから」って。
ちょっとそんなことを思い出した。
編集でいうとなんだろう、新人には青焼き校正させるとか?
いや、入稿時に打ち出した原稿に指定を書き入れていくとか?
たまにデザイナーのO氏とそんな話をすることがある。
ほんの少しの間に、雑誌編集の現場はずいぶん便利になった。
入稿時の文字指定、文字校了後の一括写真入稿に色指定……
その昔、雑誌の編集作業は、今よりももっともっと繁雑で、手数がかかった。
FAX.がまだ一般的ではなかった頃、先方確認は、電話口での読みあげ確認だった。
電報を使うこともあったっけなぁ。
「ポジ原稿の、飛行機の機体番号を印刷で修正してほしい」なんて印刷所に頼むと
「20万円かかるけど、ほんとにやります?」なんて、担当者に訊かれた。
「シワとって」「空を青くして」「この障害物をなくして」……
今、日常的に、どれだけの写真を、画像修正しているだろう。
かつてを知っていることは、ある強さになることもあるかもしれない。
でもそれを知らない代わり、
若い人たちは、古い人には想像つかないワクワクすることをたくさん知り、みずみずしい感性をもっている。
それでいいし、公平だよな。
だから、その感性を、大事にしてほしい。
新人さん、がんばれ。
2本脚の子猫、しおりに 助けた書店がつくる
大けがをして2本の後ろ脚を失った子猫の写真が、本のしおりになった。瀕死(ひんし)の状態を助けた秋田県大館市の書店…
/2009年4月19日(日)
朝日の写真ニュースのタイトルが「二本足の猫のしおり」だった。
二本足の猫が、パンケーキみたいにのされて、しおりにされた絵を想像して絶句した。
そんなわけない。我に返って本文を開いたら、いい話でちょっと泣けた。
学生時代、猫好きなわたしの周りは敵だらけだった。
猫虐待が趣味のような人が、仲よしに2人いたのだ。ほかならぬ隣人が虐待魔だったので
わたしと、わたし以上にわたしの飼い猫は、ハラハラしながら暮らしていた。
ピートは(当時の飼い猫でキジ猫。もちろん、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』から名前をいただいた)、図体だけは大きいけれど、
ちょっと頭と心が弱い内弁慶の猫で、
何度もいじめられているのに、隣人に猫なで声で呼ばれるとうっかり信じてしまい、
水鉄砲で水をかけられたりして帰ってきた。
隣の部屋に閉じこめられてパニックになったりもした。
まあ、その程度のいじめだから、隣人なりに、ピートのことは好きだったのかもしれない。
ある雨の夜、水たまりのなかで死にかけの仔猫を拾ったことがある。
満身創痍で意識がなかったのを、家に持って帰って、ドライヤーであたため続けた。
「ちゃんと元気になって、お前をこんなにした人間に仕返ししなさい。このまま死んじゃだめっ!」
泣きながらドライヤーであたため続けた甲斐あって、というか、
推定生後2か月の猫の生命力が強かったのか、
仔猫は見事に復活して、友人に引き取ってもらったのだが。
……酔っぱらった隣人の仕業だった。許せん。
虐待魔たちはマルキ・ド・サドの『悪徳の栄』や『美徳の不幸』の描写を
腹を抱えてネタにするような人だった。
「(悪徳の限りをつくすジュリエットが)羊飼いのからだに羊をゆわえつけ、谷底にぽーんと蹴飛ばして……」
みたいなありえない悲劇的な描写は、かならず爆笑の対象になる。
あの物語のなかで、信仰心の篤い正直者のジュスティーヌは、悪意をこめてかなりお馬鹿さんに描かれているけれど、
これがまた彼らに笑われまいことか。
たしかに、日常的な感性からすると、あの言動はありえないと思えるほどのお馬鹿さんなのだが、ジェスティーヌ。
悲しいかな、その醒めた笑いの感性がわたしにも染みついていたのか、
「二本足の猫のしおり」に、虐待魔たちの顔を思い浮かべてしまった。
ところで、ピートが車に轢かれて死んでいるのを、偶然道ばたで見つけた隣人は、
迷わずピートを持って帰って、遺体の血をきれいに拭い、
真っ白い箱に入れ、花だらけにしてわたしに渡してくれた。
ありがとね。
ピートは今も、南河内の石川の河川敷で静かに眠っている。
ラッキーパンダ、会えたら大吉 所沢を練り歩き10年
↓カメラを向け られポーズをとるラッキーパンダ=埼玉県所沢市の所沢航空記念公園
出会ったその日はラッキーになれる――。神出鬼没の着ぐるみキャラクターが、埼玉県所沢市で人気だ。その名は「ラッキーパンダ」。「まちの人々に笑顔を」と始めた活動は今年で10年になる。
ある晴れた日の朝8時過ぎ。所沢市内の大通りをパンダが手を振りながら歩いていた。ペロッと舌を出した、おどけた顔、胸には幸福のお守りの四つ葉のクローバー。
会社や学校へ急ぐ会社員や学生らは、驚いたり手を振ったり。通勤途中の女性から携帯電話のカメラを向けられると、すかさずポーズをとる。保育園の前では、「ラッキーパンダー」と子どもたちの大きな歓声が飛んだ。
ラッキーパンダは、月に2、3回、朝の通勤・通学時間帯に市内の所沢航空記念公園周辺に出没する。イベントや商品のPRはしない。「ただ歩く」だけ。ただ、雨にはめっぽう弱い。
同市在住の漫画家、双団平(そう・だんべい)さん(45)が生み出したキャラクターだ。99年12月、営むギフトショップの宣伝用に、パンダの着ぐるみに、チラシ入りのティッシュを配りに行ってもらうと、子どもたちが群がってきたという。
「普通にまちを歩いた方が喜んでもらえるかも」
00年2月ごろから、まちを歩くようになった。初めは名もないただのパンダだったが「会えれば、その日はラッキーになれる」とのうわさが生まれ、「ラッキーパンダ」になった。
2年前の2月、自転車に乗った男子学生がすれ違いざまに声をかけてきた。「パンダ、受験頑張ってくるよ」。間もなくラッキーパンダのホームページの掲示板にこんな書き込みがあった。「パンダに会えてテストが思ったよりできた。合格発表の日にも会いたい」
一方で、不審者に間違われて警察に通報されたことも。静岡県で、子どもがリスの着ぐるみを着た男にわいせつ行為をされる事件が起きた時、周囲から「やめた方がいい」と諭された。けれども、双さんは「ここでやめたら『変わった人』で終わってしまう。続ければわかってくれる人もいるはず」。
まちを歩き続けて10年、存在は広く知れ渡り、地元のイベントに呼ばれたり、タウン誌に紹介されたり。01年からは地元の地方新聞に4コマ漫画も描いている。
「小さな幸せに、気づいてもらうきっかけでありたい。閉塞(へいそく)感から、人々の心に余裕がなくなっているように思う。まだまだラッキーパンダは必要ですね」(中野龍三)/2009年4月17日(金)
ラッキーパンダ。
道で会ったら、やっぱりわたしも写真撮るだろうな。
普通に歩いていたら……。
想像するだけでもう、うれしくて胸が張り裂けそうだ。
なぜか着ぐるみに弱い。動く人形系には心底ヤラれてしまう。
子どもの頃から人形に囲まれて大きくなったのだが、当然、人形には魂があると思っていた。
アニミズムのなかで育てられたので。
いや、正確には、今もあるとホントは思っている(ま、人形だけじゃないんだけど、長くなるのでまた今度)。
だもんで、人形が動いたりするのを見ると、感極まってたまらなくなるのだ。
「人形が動く」といえば、今はなき「宝塚ファミリーランド」の人形館も大好きだった。
世界各国の人形が踊っているなかを、フロートに乗って進んでいくというもの。
子どものころ、行くたびにうれしくてよく泣いた(5~7歳)。
そういえば大阪の花博に勤務した初日、デイリーパレードのフロートに乗った着ぐるみを見て、
涙が止まらなくなったことがあったな(25歳当時。遠い目)。
道でばったり着ぐるみに出くわしたりすると……本当は抱きつきたい。
イタイ人みたいだからやらないけど。衝動を抑えるのにちょっと必死だ。
先日事務所の近所でローソンがオープンして(どうでもいいけど、300メートル以内に4軒のコンビニはどうよ)、
からあげクンが立っていた。
それがからあげクンだとしても(からあげクンはブツなので、人形やぬいぐるみのカテゴリーと微妙に位相が違うのだ)、
胸がきゅんと締めつけられるのに変わりはない。
自制して抱きつきはしなかったけれど
寄っていって、「写真、撮っていい?」と聞くと、ポーズをとってくれた。からあげクン、やさしいぞ♪
「見る?」 撮った写真を披露しようと、携帯の画面を見せたら
「あれ、見えない、見えない」と、着ぐるみのなかから声がしておかしかった。
その声で、わたしの夢は軽くこわれるんだが。ま、いいか。
着ぐるみの帝王といえばミッキーマウス!(着ぐるみといったら、本当は某団体に大目玉くらいます)
ディズニーランドに、プライベートで行ったことはないけれど。
カレと会うのはいつも全部仕事だけど。
間近で触れるとあの魅力はたまらない。キュートだし、紳士だし、カッコイイし、でもかわいいし。
一回会うと、もうダメだと思う。恋に落ちる。
待ち合わせて(ミッキーと!)撮影させていただいたことがあるけれど、
ポージング完璧! 目つぶりナッシング! どんなモデルよりもスゴイ。
ロールが全部使える!!! 最高のプロ根性で惚れまくった。
……一度、ディズニーランドに「遊びに」行ってみたいなぁ。
バリのリッツ・カールトン(「アマナリゾート」に名称変更)にプライベートで行って、
思いきりリゾートしたいのと同じ。なんならバリじゃなくて、ハワイだって構わない。
行ったときにはいつも、あの非日常的な空間を尻目に徹夜の作業を繰り返し、
目の前に広がるリゾートはただの背景になってと、忙殺されているから、
一度のんびりリゾートしてみたい。それがわたしのリベンジ(遠い目)。
某健康雑誌(休刊)の編集長が、今、そのアマナリゾートで奥様と滞在中だ。
旅行の前に、「館内のキシックバーのディナーはおすすめです」とアナウンスしてたのだが。
「“キシックバー”、すばらしかったですよ」と、携帯に彼からメールが届く。
バリ島、現地からでR。
うらやましすぎるぞぉ。
↓で、ミッキーじゃなくて、からあげクン。不憫だな。街で見かける不憫ちゃん探しが好きだ。
コンビニ:スイーツ好評…男性が人気の支え
コンビニエンスストアに、洋菓子専門店も顔負けの味をウリにするスイーツが…/2009年4月4日(日) 毎日.jp
男子のスイーツ好きか。いいじゃん。
20年ほど前になるか。わたしに、グルメ雑誌的なスイーツのいろはを教えてくれたのは、
男性だった。といってもゲイなんだが。H氏。
芦屋の「アンリシャルパンティエ」や「シーキューブ」、帝塚山の「ポアール」……
キラキラしてたパティスリーやショコラティエを、どんどん教えていただいた。
今みたいに、アンリもシーキューブも、百貨店にはなかったはず。
H氏は、文章の上手なライターさんで、それは鮮やかな原稿だった(今でも、1,2を争うほど、彼の原稿は好きかも!)。
唯一、締切を守らないことが多いことをのぞけば、ものすごく優秀な方だった。
のちにわたしのいた編プロに、編集者として加わることになる。
そのH氏、おいしいものには目がなく、食のこだわりはハンパなかった。
日本橋(大阪)の駅で、H氏と偶然すれ違ったことがある。目つきが朦朧としている。
「Hさん、どしたん?」
「うん、ちょっと風邪で熱が高いさかいにな。お昼に黒門のカレーラーメンでも食べて、元気つけよと思て」と、にっこり。
「あんたは! 38度の熱があるのに、電車乗り継いで、カレーうどんを食べにいくんかいな!」というツッコミをごっくんして
「熱あるんやし、気ぃつけてや」というのが精一杯だった。恐るべし、H氏。
とくにスイーツへのこだわりがハンパじゃなかった。彼のライター時代に、
一度、イチゴのスイーツについて、書いていただいたことがある。
女子以上に女子、ノリノリキュート&超ラブリーな原稿に、脱帽だった。『ageha』も真っ青だよ。
H氏はわたしよりも10歳近く年上だったけれど、
彼のライバルはわたしよりも5歳ほど年下の、ピンクハウスが大好きな女子・Y(編集者デビューしたて)だった。
Yがカラオケで可愛らしく松田聖子を歌うのを聞くと、H氏は地団太を踏んで悔しがった。
「き~っ、悔しい。ボクもあんなふうにかわいく聖子を歌いたい」と本気で身をよじる彼は、かわいかった。
43歳のわたしが、28歳のSちゃんをライバル視するのを、「それはあまりに見苦しい」という向きもあるが、
H氏のYへの嫉妬を思えば、そういうのもあり、いいじゃん、て気分になる。
彼ならば。
女子に負けずにパティスリーにも並びつつ、
コンビニスイーツはコンビニスイーツで、きっと愛すだろうな。
どうしてるだろうか。会いたいなぁ。
ちなみに。セブンイレブンのエクレアはおいしい。ナチュロのエクレアもよかった。
家でエクレアを食するときは、かならずバナナと牛乳を用意してからいただくがわたしの流儀。
ハーシーのチョコレートソースも一緒に置いておく。念のための保険だ。
昨夜も食べた。
ま夜中の贅沢。
ついでに。ロイヤルホストのパンケーキが大好きで、帝国ホテルのパンケーキの次に好きなのだが
先日ロイヤルホストで、おうちで作れる「ロイホのパンケーキミックス」を入手した。
今日、うちで作ってみたたけども。
お店で食べるほどはおいしくない。しょぼ~~ん。
あれがおうちで食べられたら素敵! と思ったのに。人生そんなに甘くないか。
それでも、気を取り直して、本日メイプルシロップを購入。またもやはまりそうな予感。
高速道値下げ、フェリー悲鳴 利用が半減の航路も
日本旅客船協会は2日、3月下旬から全国で始まった高速道路の値下げの影響で、競合するフェリーの週末の乗用車輸送台数が前年同期より大幅に落ち込んだと発表…/2009年4月3日(金) asahi.com
長距離フェリーのヘビーユーザーだった。
いちばん最初に乗ったのは、学生時代の、東京から九州行き。
「フェリーは安い」と聞いていたから試しに使ってみたのだ。
時刻表と首っ引きで、時刻を調べ、港を調べて乗ってみた。
へえ、まる12時間以上かかるのか。フェリーって時間かかるんだな……と思ったら、甘かった。
東京から九州は、2泊3日だったのだ。船中泊2泊!
おまけに二等船室にいるのは全員男性。ほとんどがトラックの運転手と思われる人たち。
女子、いないじゃん!! と、少し焦った。のも最初だけ。
「おねえちゃん、どこまで行くの?」と結構可愛がっていただきながら、2泊3日を過ごした。まだ19歳だしね。若くかわいかったのよ。
たしか、途中で停泊したところで、4分の3くらいは降りちゃって、2日目の晩は余裕で眠ることができた。
いちばんよく乗ったのは、別府~大阪のフェリーだ。
お盆の帰省で250%くらいの乗船率のときに乗り合わせたことがある。
ものすごい混みようで、レストランの営業もなし。レストランが二等船室に早変わりで、
みんなが床に雑魚寝してた。
厨房のカウンターの上にも毛布を敷いて人が寝ていた。
怒鳴ってる人、小競り合い、泣いてる子ども……
引き揚げ船って、こんな感じなのかしら……というほどの、混み方と荒ぶれようだった。
夜、巨大な船のデッキを散歩して先端まで行くと
「ちょっと待て。もう一度よく考えよう」という看板。背筋が寒くなった。
そういえば、乗車率「250%」の新幹線自由席にも乗ったことがある。
車輌の連結部分で立ったまま、混んでいるから一度上げた手を下ろすこともできず、新大阪から東京まで。
そんな、船と新幹線の超満員の地獄を体験しているので、
その時期の自由席移動はもう二度とやらないと思う。だってもう大人だもん。
逆に、クリスマスイブの別府→大阪の船の、空いてたこと!
だだっ広い二等船室に、お客さんは5人くらいしかいなかった。
飼ってた猫と一緒の移動だったけど、船室で猫をカゴから出すこともできたもの。
19歳のクリスマスだったなぁ。
記事中にある宇野~高松のフェリーには、高校時代の帰省のたびに乗っていた。
当時の帰省先が四国だったから、高校のあった舞鶴から四国の新居浜までを乗り継いで、実家に行った。
本州(宇野)からちょうど1時間で、高松に着く。
そこからさらに電車に揺られて新居浜へ。舞鶴→新居浜、片道7時間くらいかかったかな。ちょっと懐かしい。
移動はちっとも苦にならない。
むしろ、旅暮らしが好きなのだ。ホテル暮らしだって決して嫌いじゃない。
もしくはそういう環境でできる仕事がしたいな。
「授業で吉田松陰」山口県教委が奨励 愛国新条項に対応
/2009年3月31日(火) asahi.com
ええっ、今までは違ったの?
という気持ちだった。
吉田松陰なんて超ヒーローだけどな。いいじゃん、それで。
個人的には、高杉晋作のほうがもっと好きだけど。
そうか、中也も山口だっけ!
山口ってすごい場所なんだな……と、いまさらながらに。
中也といえば「山口へ」というJRのドでかいポスターを、
学生時代(まだ十代)に、JR大阪駅で失敬したことがある(当時からJRのポスターに萌えてたわけだ)。
そう。あまりにも中也が素敵だったから。
芸大の寮にいたけども、あの頃部屋には、
中原中也と、「鳩よ!」のポスターを貼ってた(←これは書店でまっとうにいただいた)。
ちょうど「鳩よ!」ができたてのころ。
大好きな本だった。初回はランボーの特集だったし、「こんな詩の本を待ってた」と思った。
後日、詩作を通じて、大好きだった「鳩よ!」の副編集長との出会いがあった。二十歳だった。
今のわたしの仕事があるのもそのおかげ。
さらには、うちにSちゃんがいるのも、そのおかげ。ご紹介いただいたのだ。
おかげさまです。
今日もその場所で仕事してきた。Sちゃんと。あれから25年が経つ。
時間の流れって不思議だ。
出会いはもっと不思議だ。
山谷は高くて 窓なし1日9百円「押し入れハウス」増加
「押し入れハウス」などと呼ばれる、狭いが格安の宿が首都圏で増えている。…
簡易宿泊所を営むKさん(58)は「ネットカフェ難民には山谷は高い。現代の『ドヤ街』は都心のネットカフェやマンガ喫茶なのでは」と言った。/2009年3月31日(火) asahi.com
ときどきネットカフェで夜明かしした。
飲み物タダだし、歯ブラシに化粧水まで……親切に色々揃っていて重宝する。
高円寺の駅前には「ライバルはビジネスホテルです」と、看板掲げたマン喫もある。
お座敷ネットカフェもあって、いいんだよなぁ。畳敷きでごろんとできて、マッサージチェアもあるし。
原稿をそこで書いてるときもある。
現代のドヤ街ねぇ。すみませんねぇ。
学生時代に、大阪から東京へ芝居見に来ていた1984年頃は
往復は深夜バスか、JRの大垣乗換の夜行鈍行だった(JRのほうが実は安かった)。
宿泊は、新宿の簡易宿泊に近いビジネスホテル4000円、
お風呂は共同(女子が入るときは管理人さんがカギをかけてくれた)、
窓を開けると、窓の外はどどんと墓地だった。
……てのが、今も事務所の近所に残っていて、前を通ると遠い目になった。
そういうところに泊まって、太田省吾氏の転形劇場「地の駅」とかを観に行ったなぁ。群馬の採石場まで。
交通費を除くと200円しかなくて、昼間に冬場、東京で1日200円でいかに過ごすか
結構やりくり上手だったと思う。
……その半分はポテトチップスになった。
昼間は百貨店や銀行、ビルで暖を取る。警備員さんとのしのぎあい。
しのぎあって、書いてた。
紀伊國屋の小さい小さい(多分A6)400字詰め原稿用紙がお気に入り。
まだ十代だった。
最初のストーンズの来日公演だって、青春18切符を分けて、1人6000円で、0泊3日の東京行き。
行き帰りともオール車中泊だった。
ナカ日に東京ドームのライブを入れて、超効率的。
チケット取るために、毛布にくるまって2晩並んだ(先行予約で取り逃がしたのだ)。
今よりも金はなくて時間があった、ある意味豊かな時代。
時間もあって金もあるのがいちばんいいけど、
とにもかくにも大人になってよかった。
だって、パークハイアットはすてきだもん。
それに公演の合間に、気にせずコーヒー飲めるのって、やっぱりいいじゃん。
でもね。
狭い寝床で見る夢も、ラグジュアリーホテルで見る夢も、
変わらず同じ素敵な夢だと思うよ。
そういえば、「商人宿」という言葉は、消えたのかな。
思い出した。学生時代に住んでいた部屋の家賃は、2万3000円だった。
2部屋+K+バス+トイレ(1986,87年)
記事にある「1日900円」より、ずっと安い。
都議介入『不当な支配』 性教育授業 七生養護学校訴訟 地裁が賠償命令
東京都立七生(ななお)養護学校(日野市、現・七生特別支援学校)の元教師ら三十一人が、性教育の授業や
/東京新聞 TOKYO Web 2009年3月13日(金)
3年ほどこの裁判を自分なりに追ってきた。
勝訴になって本当によかった。
取材で“人間と性”教育研究所のT所長にお話を伺ったことがあり、
そのときに所長から初めてこの裁判の話を知った。
「スージィとフレッド」というアメリカ製だかの性教育用の人形がある。
きちんとお洋服を着ているのだが、脱がせると、性器がついている(射精はできたかな? 忘れた)。
素朴な感じのする布製の人形でなかなか愛らしく、家族が揃っていて、
子どもたち、お父さん・お母さん、たしかおじいちゃん・おばあちゃんまでいて、
性の違いはもちろん、年齢と性徴についても学べるような、よくできたものだった。
七生養護学校では性教育にこれを使っていて、視察に訪れた都議から
「行き過ぎた性教育」として、これらの教材を取り上げられ、非難されたという話。
そこに産経新聞が絡んじゃって余計手に負えなくなるのだ。
「過激な性教育だ。しかも“自慰は恥ずかしいことじゃない”と教わった男子生徒が教室で自慰をして、“だって恥ずかしいことじゃないって教わった”と言ったの言わないの……」
というのが都議側の言い分。
馬鹿おっしゃい、と言いたくなる内容だった。
教室で自慰をした、そこからさらに修正したり教えたりするのが性教育なんじゃないのか?
思春期の子どもに、養護学校だから自慰や射精を教えないって、おかしい。
別に過激でもなんでもなくて、性って誰かに教わらないといけないことじゃないのか。
正しい知識を教わる権利も義務もあるんじゃないのか……という憤り。
とにもかくにも、七生養護学校側が勝訴でよかった。
“人間と性”教育研究所に絡んで、マイノリティの性についてのセミナーに出席したことがある。
同性愛はもちろん、身障者の性、老人の性についてのディスカッションがあった。
同性愛は、マイノリティというには周囲に多すぎて、わたしにとっては日常だ。
同じように、老人の性も早く日常になってほしいと願う。
老人の性を、ないがしろにされているのを見ると悲しくなる。
汚いもの呼ばわりされるとつらくなる。
90歳のスキンシップのなにが悪い。老いらくの恋のなにが悪い。
みんな今のまま歳をとるんだぞ、見た目だけが年とってるだけだぞと、声を大にして言いたくなる。
唐十郎は「少女とばばあは紙一重」と言ったっけ。
と、大きく話はそれたけども。
性教育って、大事だと思う。
ちなみにわたしは小学校4年生のとき、学校で友達から初めて性交について聞かされた。
正確には「まりちゃんは、おとうさんの○○をおかあさんの××に入れて生まれたんだよ」
と聞かされて、それはショックで、
うちに帰ってから母に、
「本当なの? わたしは、おとうさんの○○をおかあさんの××に入れて生まれたの?」と、半泣きで尋ねた。
母はきっぱり、「いいえ、あなたは違います」と言った。シビレルなぁ。
◎東京地裁判決についての声明
http://www.news-pj.net/npj/pdf/2009/nanao-seimei_200903.pdf
京阪、テレビカー廃止へ ワンセグ普及で「役目終えた」
/2009年3月26日(木) asahi.com
二十代の前半、まだ大学の副手をやっていた頃、2年ほどを京都で暮らしていた。
左京区の一乗寺。
大阪の僻地・南河内郡にある芸大(←職場)まで通うのに、
一乗寺→(叡電)→出町柳→(京阪特急)→淀屋橋→(地下鉄御堂筋線)→天王寺→(近鉄南大阪線)→喜志→(教員バス)→南河内郡
ヘタすると片道2時間半という通勤時間をかけていた。東京~新大阪の時間だ。
とはいえ、ちょうど出町まで京阪特急が伸びたところだったので、かなり重宝したし、
京阪特急の始発から終電まで乗るので、ほとんどは座ることができて、
書き物をしたり好きなだけ本を読んだりぐっすり眠ったり、
快適に過ごせる貴重な自由時間でもあった。
昔から、大阪から京都への移動は、京阪特急がいちばん好きなのだ、わたしは。
「京都に行った」という気分がいちばんするし、第一、出町柳も大好きだ。
左京区、LOVE。やっぱ京都は左京区でしょうよ!
阪急の特急はそんなに好きじゃないし、第一、特別感に欠けるんだよなぁ。
TVカーは、その京阪特急の真ん中くらいの車輌についていた。
わたしはどうでもよかったけれども、人気だったと思う。
ワンセグに席巻されてもういらない……時代だものね。
わたしだって、WBCはワンセグ観戦だったもの。
ちょっぴり寂しい気持ちがしないでもない。
でも、京阪特急がなくなるわけではないしね。いんだけど。
中之島まで延伸したのかな。たまに乗ってみたいな。
そろそろ車窓から見る天満の川縁の桜が、最高にきれいな季節じゃないか。
たかが人形になぜ夢中 カーネルおじさんに重なるあの頃
阪神タイガースのリーグ優勝に興奮したファンに大阪の川に投げ込まれ、…/2009年3月15日(日) asahi.com
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コバタバタしていたら、いつのまにか、カーネルおじさんが川底から発見されていて、
時の人になっていた。
この2月にO氏と道頓堀を歩いたとき、川岸がきれいになってホントに驚いたんだ。
なんでこんなに工事しているのに、カーネルおじさんが見つからないのか不思議だったけど、
ようやく見つかったわけだ。
よかった、よかった。
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話がデカくなりすぎたから、絶対言えないと思っていたけれど、時効だからいいか。
カーネルおじさんを投げ込んだのは知人だった。
大学2年生の時、同じ長屋に住んでいたゲーダイの2コ上の先輩一派が(オール男性)、お茶目が高じてやった。
こっちもハチャメチャだったけど、あちらもハチャメチャで、少々ベクトルが違ったのだ。
ベクトルは違ったけども、うちの飼い猫は、生まれた子猫を何匹か
彼の部屋のタンスの引き出しに持っていった(隠したらしい。たぶん、うちに人が来すぎるからだ)。猫、シンパシーを感じたのか!?
ある日長屋の先輩が「これ、あなたのところの子猫じゃない?」といって
生後2週間の猫を2匹、困り顔で届けてくれた。
「タンスの引き出し開けたら子猫がいるんだもん。びっくりしたぁ」って。
ちなみに、カーネルさんを落としたあとは「ちょっとやりすぎちゃった」って、先輩たち、反省してた。
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カーネルおじさんと聞くだけで、あの長屋のこととか、
仲間の阪神優勝・道頓堀殴打事件とか、
王将の餃子50円セールとかを、まるで昨日のことのように思い出す。
たしかに懐かしい。懐かしくて甘酸っぱい……気もする。
85年。不思議な年だった。たしかに。
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大阪と人形文化と聞いて、えらく納得してしまった。
なるほどね! わかる、わかる♪
集めた表札289枚 窃盗容疑者を逮捕
/2009年2月17日(火) asahi.com
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表札マニア。初めて聞いた。マニアはいいけどさ。盗みはいけません。
人の富を傷つけてはいけない。人に不利益を及ぼしてはいけない。
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レコード、CD、スノーボール、塔のオブジェ……周囲にマニアは多い。
学生時代に仲のいい隣人が、TVマニアだった。
観るほうじゃあ、ない。
集めるほう。
物質としてのTV。
というわけで、部屋いっぱいにさまざまなTV。
珍しいものを集めたわけでもなく、ただ捨てられたものをたくさん、ワンルームの部屋の天井まで積み重ねていた。
かさばることこのうえない。
「見守られているようで安心する」と言っていた。
芸大だからね。なんだかヘンな状況に不足することはなかった。
あれに比べると、わたしには大した収集癖はなさそう。
米小説家ジョン・アップダイクさん死去 「走れうさぎ」
【ニューヨーク】戦後の米国を代表する小説家で、数々のベストセラーで知られるジョン・アップダイクさんが27日朝、米東部マサチューセッツ州のホスピスで、肺がんのため死去した。76歳…/2009年1月28日(木) asahi.com
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写真、初めて見た。
ウサギみたいな方だな。素敵なおじいちゃまだ。
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白水ブックの『走れウサギ』。ジョン・アーヴィングとともに、『夏への扉』とともに、
わたしを形成しているもののひとつだと思う。
そうか、亡くなったのか。
ひとつの時代が終わった感じがした。
『走れウサギ』。
「リュウキンカがニワトコの実を飲みほす」の言葉を鮮明に思い出す。
そしてあの頃のちょっぴりブルーな空気と。
ご冥福をお祈りします。
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タイトルと本文と表記が違うな。
正しくはカタカナです。
81年卒業生57人、3度目のタイムカプセル開封--10年後の自分へメッセージ託す
藤沢市立新林小学校(同市川名)の81年の卒業生57人が11日、「不惑の成人式」を開く。/毎日新聞 2009年1月11日 地方版 毎日jp
ちょっと胸が温まる「不惑の成人式」記事だった。
気がつくと、成人からダブルスコア、さらにちょっと。
いや、あらためて顧みると、驚くのなんの。時間の流れって、早い。
去年の誕生日だかに、母親に言われたのは「どう? 時間が経つの、すごく早くなってきた?」
さすが、我が母。的確にヤなこと言うなぁ(笑)。
・
「10年ひと昔」を感じられるようになったのは、25歳くらいだったか。
その言葉を意識してから、時間の流れは加速度をつけて増してきたように思う。
それまで、思春期はきつかった。
大人たちが言う、「生きていればいいことあるよ」なんて、頼りないことこの上なかった。
「今だ。今すぐ救われたいのに!」と、胸の中で叫んでいた。
この時間が、あと3倍4倍続くなんて、もう無理、くらいに思っていた、新成人のころ。
感受性なんてどうにかなれ、くらいに思っていた。
それから子ども扱いにもムカッ腹が立ったっけ(今は年寄り扱いに腹を立てる)。
・
「時間薬」が素晴らしいと思うようになったのは、30歳くらいじゃないのかな。
だから、「生きていたらいいことあるよ」とは、子どもたちには言えないな(言ったら、子どものわたしが怒るような気がする。「てめぇ、ゼッタイ言われたくなかったくせに!」)。
もし、誰かに伝えることができるなら、
その場所で、拾えるものは拾っとけ。気になるものは大事にしろ。
人の価値観を気にするな。自分の感性を大事にしろ。
そして、
「大丈夫、人生のタイム感は今よりめっちゃ早くなって、なんとかやってけるかなと思えるようになるから。もう少しだけの辛抱だ。乗り切れ」だろうか。
・
・
成人式には行かなかった。
ゲーダイだったし思いきり斜に構えていたし言われることをするのはいやだったし
成人式の日も、ゲーダイで遊んでたなあ。
でも、晴れ着を来た同い歳の女子を、ほんの少しうらやましいと思った。
晴れ着を着た友人と喫茶店で話すのに、ちょっぴり肩身が狭かったもの。
晴れ着の女子と、自分とでは、確実に、これから進む道が異なる気がした、
というか、違う道を歩く決心がついた(85年。今よりも少しだけ保守優勢な時代だ)。
いや~、今となっては、どうでもいいでしょ、そんなこと。
今もしもあのときに戻れるならば……ゼッタイ行かねー(爆)。
・
とはいえ、人様の模様は、いつでもあたたかい目で見守りたいし、
晴れ着を着た女の子たちを眺めているのは、とても好き。
おめでとう。君の未来を、確実にその手で切り拓け。
そして、お父さん、お母さんたち、お疲れ様!
新成人、おめでとうございます。
ペット治療ミス、賠償金高額化 裁判所「強い愛情」認定
/2009年1月11日(日) asahi.com
・
二親等が亡くなったときには1週間の公休が認められるのに、
最愛の猫が死んでも、小鳥が死んでも、ただの1日の公休も許されないのか、とは、よく不条理に思ったものだ。
事務所で飼ってたピー助(セキセイインコ)が死んだときは、事務所でお葬式したっけ。
・
死んでしまう場合だけじゃなくて、
猫が出産するときは会社休んで手伝いたいし(いや、実際は休んだ。飼い猫のタンゴが初産を控えたある日「今日は仕事に行くな、心細いから」というので、「ほんとうに今日産む?」と聞いたら、「もうすぐだから」と言うので、仮病を使って仕事を休んだ。3時間後にタンゴは仔猫を4匹出産した。
病気のときはそばにいてあげたいと思うし、
飼い主・ペットの関係を通り越して、一緒に暮らしている動物は、ときに人生のパートナーでもある。まさしく「かけがえのない存在」。
・
タンゴの話をもう少し(名前の通り、黒猫だった。中之島公園の側溝に捨てられていたのを、拾った友人からそのままもらった)。
わたしが仕事から帰ると、決まって彼女は迎えに来るのだが、
その日に限って「お迎え」がこない。
お出かけかなぁと思って部屋に入って灯りをつけたら、部屋の真ん中でタンゴがうずくまっていた。
「どうした?」と聞いても、なにも言わずに、うずくまっている。
これは一大事だと思って、すぐに動物病院に連れて行った。
すると「風邪ですねー」と言われて、薬を処方され、「?」と思いつつも、まあ見てもらったことだし、と家に帰ってきた。
ところが、帰宅してもタンゴは歩かずうずくまっている。
好物の猫缶を出しても微動だにしないのを見て、こちらが動転した。
ふたたび動物病院に電話。
「さっき見てもらったけど、風邪のワケがない。様子がほんとうにへんだから、もう一度連れて行くから、ちゃんと診てほしい」
ふたたび同じ動物病院で診察を受けた。今度は違う先生が慎重に診てくれた。
レントゲンを撮ったときに、驚くべき事実が発覚。
「肋骨が折れて肺に刺さっている。すぐに緊急手術だ」
交通事故なんかじゃなくて、おそらくバッドみたいなもので殴られたと思う、と先生。
黒猫であるばかりに、いじめられることも多かったのかもしれない(当時は外に出していたし)。泣けてきた。
とにもかくにも、本当の病名がわかって、しかるべき治療を受けて(しかしそのひと月前に避妊手術を受けていたタンゴは、2度連続して開腹手術を受けることになってしまった)、
入院二週間。
治療費は当時10万円くらいかかって、この高額ぶりにも泣けたのだが
会社の先輩が「タンゴのお見舞い」と言って、多額の治療費をカンパしてくださった。
あのときのありがたさは今も忘れない(マイミクのルーラさんだ)。
タンゴはその後13年生きて天寿を全うし、一昨年の春に逝った。
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しかし、あの初回の誤診のまま放っておいたら、確実に死んでいたと思うとぞっとする。
あの病院は、ホームドクターだったけど、それも探しに探してようやく見つけた、信頼できる「いい動物病院」だった。
そういうところでも、治療ミスは起きるわけで。
・
それにしてもいい動物病院を探すのって、ほんとうに難しい。
助かる命も、病院の選択ひとつで助からなくなってしまったことが、何度かあった。
治療ミスが死を招く(医療ミスとはいわないんだな)なんて、慰謝料ではすまされない。
でも、お金が、寂しい気持ちの足しになることだってあるかもしれない。理解できる。
最愛の人が死んで、生命保険がたんと下りたときの感じと変わらないかもね。
ホームレス経験の16歳、プロ格闘家に デビュー戦飾る
/2008年10月26日(日) asahi.com
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ほんま、ええ話やで。
朝から泣けました。
おっちゃん、今頃、なにしたはるやろ。
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ホームレスといわれて、どこか、他人ごとの気がしない。
新聞紙の温もりを感じて震えながら眠った、十代の夜を思い出すんだ。
「ミシュラン京都版」に壁 「一見さんお断り」の文化
/9月17日(木) asahi.com
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ミシュランで躍った年だった、東京は。
「あの方式はいただけない」という、よくない噂も時折耳にした。
いや、わたしにとっては参考書のひとつなので、いんです。
ただ外野にいて面白かったし、知った店が入ると、うれしかったり。
・
さて、京都の状況を、ちょっと小気味いいと思うのはわたしだけかしら。
そういうやり方があっても素敵だと思う。
たとえいつか未来に、意志を曲げて妥協する日がくるにしても。
・
鎖国していたときの江戸文化は素晴らしいと思う。たとえ世界に目が向かなくとも構わない。
誇れるオリジナリティがあるのなら。
その価値は、後世の人が決めるんだろうな。
8月になると、原爆記念日、終戦記念日に向けて、関連記事がぐっと増える。
物心ついた頃からずっとそう。
この現象が、50年後も続いていればいい。
・
初めて原爆に触れたのは、小学校2年生のとき。
『8月がくるたびに』という絵本だった。内容は忘れた。ただ表2見開き(表紙を見開いたところ)と表3見開き(裏表紙を見開いたところ)にある
おびただしい人骨の絵を見て、ひたすら「怖かった」ことが鮮明だ。
カルチャーショックといっていいだろう。
余談だが、その絵本を見せてくれたのは2つ年上のお姉さんだった(甲子園の同じ社宅に一緒に住んでいた)。
そこんちで、小泉八雲の「雪女」をソノシートで聴いた。大好きだった。
初めてグレープフルーツをいただいたのも、そこんちだ。
・
小学校3年生になって(仙台)、学校の近くにあった書店で『広島の雨はドームの涙』という本を買ってもらう。
欲しかったのだ。表紙のイラストはいわさきちひろ。
いろんな人たちの原爆に関する手記を集めたものだった。
・
中学3年生で舞鶴に引っ越すと、共産圏。
担任は日教組バリバリの男性で、国語の教科書がなかった。
正確にはあったが、ほとんど使った記憶がない。
代わりに、手作りのプリントで、原爆、沖縄戦、東京大空襲、そのほか戦争の悲惨にまつわる詩、歌、手記、小説、映画、マンガなどが1年間テキストになった。
つまり、中3の国語の時間は、すべて平和教育に充てられた。
日本軍の蛮行についても教わったし、日本の軍人が中国人を虐殺するハードな写真なんかも、ようけ見せられたもんだ。
目を背けようものなら「現実を見るんだ! 目を背けるな!」と檄を飛ばしていた担任。
原爆記念館は、広島にも長崎にも行った。平和教育に傾倒した修学旅行だった。
おかげで、第二次世界大戦にまつわる日本のあれこれと自分は、おそらく同年代の人のその関わりよりも、かなり濃いのだろうと自覚する。
それはきっと悪いことではない。
たくさんたくさん見聞きしたせいで、
戦争は悲惨だ、ひどい、許せないという深い悲しみと怒りという感じではなくて
とらえかたはもっとフラットになったと思う。
かつてそこにたしかにあった大きな不幸について。
・
さらに高校生になって『東京裁判』、大学生になって『きけわだつみのこえ』(中学のときもやったけど、まとめて全文読んだ)、
さらに大人になって、山本夏彦氏のさまざまな戦時中の回顧エッセイを読むにつけ
とらえ方がもっとフラットになっていく。
ステレオタイプで語られる戦争ではなく、いろんな方向からの声が好きだ(実際山本氏のエッセイにはかなり救われたと思う)。
今でも、だれかの経験した戦争の話を聞くのはわりと好き。
戦争を体験していない自分のなかに、できるだけたくさんの視点をもちたいからだと思う。
そう。ある話に触れて、深く悲しんだとしても、なにか強い怒りを覚えたとしても
大きなところではフラットでいたいのだ。
・
にしても。
戦争体験は、後世に残していかなければならないものだと、わたしも思う。
原爆が語り継がれているこの現在の状況こそが、平和であるともいえるのだ。
8月が来るたびに、いまの日本の平和を確認する。今年も。
・
・
・
中3の国語の教科書。たしか、冒頭にあった草野心平の蛙の詩はやったと思う。
それから百人一首を強制的に覚えさせられたのも、今となっては感謝している。
けれども。
強制暗記じゃなくてさ、一句ずつていねいに教えてほしかったなぁ。
平和教育はいいんですが、あの時期の国語って、ほんとうは大事だと思うんです、先生!
わたしはあのとき、フツーの国語の授業を受けてみたかったです、先生。
リニューアル工事 阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で…新たに出店するケンタッキーフライドチキン カーネル・サンダース人形が初披露 /朝日iモード2008年3月18日
85年、阪神タイガース優勝。
大学2年生だった。南河内の田舎で暮らしていたが、優勝とともにほとんどの友人たちは、
ミナミの街へと繰り出した。わたしと親友はバイトで参加に乗り遅れ、
しょうがないからふたりで富田林(やはり南河内だが、こちらは「市」)の王将へ。
阪神優勝セールで、餃子が50円だったのを覚えている。
そして酔っぱらって「掛布の背番号は?」「ばんざ~~~い!!」でごまかしていた
にわか阪神ファンのミナミ組は、暴力事件のまっただ中に。
救急車で運ばれる騒ぎになって、
翌日別人のように顔を腫らした友人を見て絶句したものだ。
しかも仕送りされたての全財産を全部盗まれていた。
泣きっ面にクマンバチ。行かなくてよかった(・∀・)
小学校のとき大阪に引っ越して(学校は甲子園だったし)、クラスのほとんどが阪神ファンだという現状に
子どもながらに全体主義?をからだで感じ取り
以来、阪神ファンを避けるようになったのだが、気がつけばやっぱり阪神なのだ。
別に野球ファンというわけじゃない。
それでもアニキがバッターボックスに立つと、真剣に「打て!」と思う。
阪神が強いときは、自分に追い風が吹いているように感じることがある。
もちろん、ほかの球団でそんなこと感じることは決してない。
ちなみに、件のカーネル・サンダースを道頓堀川に投げ込んだのは
当時住んでいたわたしの長屋の住人たちだった。
「酔っぱらって、ついやっちゃった」と笑っていた。底抜けに明るく、楽しい人たちだった。
飼っているわたし猫が、産んだ仔猫をそこんちのタンスのなかに運んだりして
ちょっとした騒ぎになったこともあった。
そんな、なつかしの85年。
ちなみに社長はこの年、初めて大阪へ赴任。P社の支社長に就任したそうだ。
この年の阪神優勝だったものだから、妙な縁を感じたそうで、
彼はいまだに阪神ファンを続けている。