それが事実であるがゆえに、ニュースは最高におもしろい。
そこからドラマを読み取るのは、あなたなのかもしれません。
小学校5年生のときに引っ越していった小倉の家に、
とても大きな桜の木がありました。
思えば私の桜が好きなのは、
あの木への特別な気持ちから始まったのかもしれません。
家に覆い被さるくらい繁っていたソメイヨシノ。
枝からブランコをさげることができたくらいだから、
当時で樹齢40年くらいあったのだと思います。
その木が大好きでした。
おねだりしてブランコをつけてもらったものの、
実際にはほとんど使いませんでした。木が気の毒で。
夏になるとものすごい蝉時雨で
夕方になると地中からようやく抜け出して、幼虫から成虫になるセミがいくつもおりました。
声はすれどもセミを探せない私に、
「ほら」「ほら」「あそこにも」と、父が指差すほうをみると
いとも簡単にセミが見つかるのには、子ども心におどろきでした。
六年生の夏休みが終わる8月31日の晩、
もう二度とこんなにすてきな夏は来ないことが悲しくて
布団のなかでギャン泣き、もとい、さめざめと泣きました。
夏のひとときのキラキラが、それはやさしく美しく、
その輝きから抜け出して他人のように秋を歩きだすのが、たまらなく悲しかった。
そして自分は大きくなっていく。
この夏には二度と会えないことがせつなくてせつなくて。
翌朝、目をはらして始業式に行きました。
学校の友達との楽しい日々に、せつなさはちぎれ飛んでいきました。
そんな女の子を、桜はどんな思いで見守ってくれていたのかしらと思います。
あのとき、木の精がいるのを静かに感じていました。
大きくなって、かつて住んでいたその家を見に行ったら、
伐られてしまって、桜はもうそこにはいませんでした。
でも、きっとずっと覚えてるな。
せつなかったこと。
桜の精と暮らした日々の輝き。