夢のお迎え

2012年7月29日 (日)

気づいたときに不思議話をまとめておこうかと思う。
思い出したときに、ぽつりぽつり。

子どもの頃からわたしはたいへん寝付きが悪かった。
眠るときに音楽を流そうものなら、聞き込んでしまい、そのままアルバム2枚、3枚……
聞き続けることも少なくなかった。
それが眠れるときの規則性に、十代の終わり頃だかに気がついた。
お迎えが来てくれることに気づいたのだ。

ひとつは、夢のお迎え。昨夜見た見た夢のしっぽがふっと思い浮かぶようになると、もうすぐ。
起きている間はかけらも覚えていないのに、昨夜の夢の顛末がリアルに蘇ってくるのだ。
ちょうど大河ドラマのいちばん頭に、先週のストーリーをおさらいするような感じ。
あるいはわたしが夢のほうに走っていくと、夢のしっぽが見えて、それをつかむことができたみたいな。
するとそのまま夢の世界に旅立つことができる。ここから後戻りをすることはまずない。
たいへんな安堵感に包まれて眠りに落ちる。

夢の始まりは、壊れかけたTVの真逆な感じ。
砂の嵐の中にジジッ、ジジッ、と、徐々に映像が現れてくるようなのに似ている。
普段はそんなふうに、夕べの夢が迎えに来るのだけど
たまに違うもの……いけない夢がくることがあって、さわりだけ(ジジッ、ジジッ)と来たところで
「そっちはだめ!」と、全力で正気に戻るように努める、覚醒する。
その先はたいへんな悪夢なのだ。ジジッジジッと、見るに耐えない魑魅魍魎なんだもの。
チャンネル間違えるとそうなる感じなんだよな。


もうひとつの、大事なお迎えがある。これはひとり暮らしを始めた十代の終わりくらいに気づいたことで
寝入りバナに、耳元で呼ばれるのだ。「マリ!」とか「マリちゃん」とか、「おーい」とか。
あまりに急に大きな声で呼ばれるので、びっくりして目が覚めることもあるくらい
(そんなときは、きょとんとして、ああ、アレだと思うとすぐに眠る)。
親の声が多かった。たとえだれの声とはわからなくても、たいへん親近感があるというか、家族的というか、わたしのことを好きな人の声だというのが直感でわかる。
ただ、この頃は少し様子が変わってきて、知らない人の声が増えている。
まったく知らない声で「ねえ、ちょっと!」みたいなときもある(あるいはわたしの名前をしらないのかもしれない)。
でもその声が聞こえると、ああお迎えだ、夢の国に行くんだ……むにゃむにゃ……ぐぅ、ということになる。



自分を振り返ると、眠れないのは単に、体力がありすぎてのこと。
1日30時間くらいで平気な体力がわたしにはあったのだと思う。
だから眠れない子どもは寝かせなければいい。好きなだけ本を読ませればいい。
もっともこの頃は、「眠れない」とはほど遠い毎日。
「さあ眠ろう」という前に眠り落ちてしまうのが、しあわせな悩みです。

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